学生時代、私はYHC(青少年ひのきしんキャンプ)という学生会のキャンプサークルに参加していた。それまで野外活動にはあまり興味がなかったのであるが、入学当初誘われるまま入門キャンプに参加したのがきっかけだった。
 そのとき、先輩からかまどの火を焚いてみろといわれた。そこには新聞紙と木切があった。木切れを無造作に並べその下に新聞紙を丸めて入れ、そして火をつけると火は大きな炎となって燃えあがった。しかしそれは数秒ともたず、すぐに消えてしまった。
 そんなことを数度繰り返していると、先輩が笑いながら「最初だから仕方ないよな」といって火の付け方を説明してくれた。「この大きな木に火がつけば火力も強いし、少々目を離していても火は燃え続けてくれる。でもいきなりマッチを太い木に近づけても木は燃えない。逆に新聞紙はすぐに燃える。でもすぐに消えてしまい料理を作る役には立たない。この新聞の火を太い木に移すにはこうすればいい」と言って、太い木、中程の木、細い木を選り分けて、濡れている木は斧で丁寧に木肌を剥き、何本かの木は角に刃を立てて、ささくれた状態にして、かまどの真ん中に細い木から太い木へと内側より順に組んでいった。そして新聞紙に火をつけて、その組んだ木の中に入れると、火は細い木から太い木へと見事に燃え移り、しばらくは消えることのない大きな炎となった。
 何気ない話だが私は時々この時の状況が頭に浮かんでくる。そして色々な場面でこの話が教訓としてよみがえるのである。活動の盛んな教会、活発な青年会を見ているとうらやましく思える。「自分たちの分会もあんな風ならいいのに」と安易に思ってしまう。 しかし、そこには一朝一夕に成ったのではない様々な心遣いと苦労があったに違いない。時には楽しく盛り上がりやすい行事を、時には信仰の充実をはかる行事を、そしてその人その人に合わせた丹精を、多くの失敗を乗り越えて今、燃えさかる姿があるに違いないのだ。
 立教一六○年を迎えた今、我が平安西分会も内容充実を目指して様々な活動に取りかかっている。
 これからその活動を通してそれぞれが一手一つに丹精し合い、励まし合い、楽しみ合って揺るぎない大きな炎となれるようにがんばっていきたい。