京極のおばちゃん

 まだ私が小学生の頃、ある晩、騒がしい声に起こされた。裏の方から「誰か、早う来ておくれやす」と叫ぶ声。父と母が大急ぎで飛んでいった。私の胸はドキドキと早鐘を打っている。大澤先生の病気が悪化したらしい。
 大澤先生は病気のためいつも首をかしげて、いつもニコニコと私たちを見守ってくださる優しいおじさんだった。いちじくの木を植えておられ、たくさんの実がなるといつも「これ、おあがり」とくださった。ある日父に「あのなあ、重延さん。昨晩、このいちじくの木を抜いて根っこを洗ってる夢を見たんや」と言われ「へえ、あんまりゲンのいい夢やないなあ」と話し合っているのを聞き、そんなもんかなぁ、と思っていた。 
 そして、大澤先生は出直され、いちじくの木も枯れてしまった。
傷心のおばちゃんは家業である新京極のおみやげを売る店へ帰られた。でもすぐに立ち直り、毎日のように平安西の教会へ来られていた。仕事柄いつも綺麗に着物を着て、髪もアップにすっきりした姿だった。「おばちゃんの髪きれいやなぁ」というと、「そうどすか、きょうはアヤさんに行ってきましたんえ、先生がなあ、似合うようにしてくれはるねん」と三日にあけず髪結いさんに行く素敵なおばちゃん。
 お餅つきの日「おけそくさん(小餅を大小重ねて鏡餅のようにしたもの)」をいくつも作っているので不思議そうに見ている私に、「これは井戸の神さんどすやろ、ごふじょう(トイレ)の神さんに、おくどさん(調理釜)の神さんや、店にもいりますしなぁ」と、おばちゃんのところは神さんだらけやなぁ、と感心した。
 お勝手のことは女中さんまかせで、錦市場も近く「おばんざい」も豊富にあるし、かいがいしく調理するおばちゃんの姿はあまり思い出せない。「あてはなぁ、心臓がアプアプしてるさかい、長生きでけへんと思うわ」と言いながら、気が付けば、平安西の前奥さんも中野のおばちゃんもこの世にはなく、おばちゃんは一番の長寿となった。
   おいでやす 京の言葉の やはらかき のれんをくぐれば さわやかに笑む
   はんなりと 遠き面影 なつかしく 京の美人は やっぱりおばちゃん
 色紙に短歌を描き「これ、おばちゃんのことえ」と差し出す。そうすると、このつたない短歌を書いた色紙を喜んで、店のショーウインドーに飾ってくださった。
 おばちゃんはやっぱり、京極のおばちゃんや、90才になってもお店の番をして、修学旅行生に「もう一度、京都の言葉を聞かせて」とねだられている。
 息子さんは先に出直され、今はお嫁さんとお孫さんとの三人暮らし。おばちゃんはお嫁さんのことを親しく「お母ちゃん」と呼ぶ
「お母ちゃん、あてなあ、昔、芸妓したはったんかて聞かれたことおすねんで」
「よういうわ」と「お母ちゃん」。「ちょっと触っただけでよろよろとよろけはるし、恐いわ」と言いながらも何でも好きなようにしてあげようと優しい心遣いで見守っておられる。
 本当にいつまでも長生きしてほしいおばちゃん、今も私に、「ともさん、ともさん」と優しい声を掛けて下さる。