只今は、当教会11月の月次祭のおつとめを賑やかに滞りなく勤められましたことを共々にお喜び申し上げます。また、本日は皆様方、それぞれに御用の有る中ご参拝いただき誠にありがとうございます。
  お役を頂きましたので、少しの間ですが、つとめさせていただきたいと存じますのでよろしく御願いいたします。
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  突然ですが、私は人が「生きる」とはどういうことなのかなと考えるんですね。よく言われるのは、生きるとは、「出会いと別れをくりかえすこと」。それでは、その「出会いと別れ」の究極はなにかと言いますと、私はそれは、人の誕生と出直しだと思うんですね。一面的には、人が生きるということは「人の誕生と出直しを見続けること」であるとも言えるんじゃないかなという事であります。私、今年で55才になりましたが、近頃、殊にその思いが強くなってきました。
  子供の頃、死、出直しとは、あまり身近に感じられることではなかったですね。出直される方が主におじいさん、おばあさん世代であり、あまり身近に感じる人が少なかったからだと思うのですが、年を経ると共にじょじょに自分の世代に近い人が出直されるようになってまいりました。
  思えば、自分たちの子供や、親戚の子、知人の子や孫など、周りには多く子供たちが生まれてますから、その数だけ、出直される方がおられるというのは当たり前といえばそうなんですが、やはり、身近な人が出直されるという事は寂しいかぎりであります。
  4年前の12月、父親が出直しまして、そして、昨年12月には皆さんにもとてもなじみ深い日乃丸の前会長さんが出直されました。
  日乃丸の前会長さんは私の義理のおじにあたりますが、おじさんには本当に子供の頃から言葉にいい表せないほどお世話になりました。今にして思えば、おじさんは、お道の上での、父親のような存在でありました。私の父親は、つとめ人でありまして、母親も主婦から教会長になった人でしたから、お道の祭儀式であるとか教会の事務の事などはあまり知識がなかったんですね。私が15年前、教会長のお許しを頂いてからは、信者さんの葬儀や、年祭、そして、教区や上級への提出書類など分からないことがあると、すぐにおじさんに聞く。するといつも適切に答えて下さる。毎月私の教会の月次祭にも参拝して下さっていて、いつも周りを和やかにして下さっていた。私にとって本当に心強い存在でありましたし、おじさんがいつも身近にいてくれたことはとても幸せなことだったんだなと今、実感しております。
  悲しいことですが、人生を歩む上で、大切な人との別れは避けて通れないことであります。また、その別れは突然やってきて、時として、続く事もあります。
  4年前の父親、昨年のおじさんに続いて、今年7月には、義理の父、嫁のみそののお父さんが出直されました。
  このお父さんにも本当にお世話になりました。いつも神戸の教会で私たち家族が来るのを待って下さっていて、おじゃまするとニコニコと迎えて下さった。
  お父さんは非常に心遣いの細やかな方でありまして、その例として、生前、家族の誕生日の朝には、必ず携帯のお祝いメールをくださるんですね。子供、孫、その配偶者、そしてひ孫。私も結婚以来、誕生日の朝一番に必ず、おめでとうのメールが入っている。こんな朝早くから誰だろう、と見てみると、決まって神戸のお父さん。毎年、一番最初におめでとう、を言ってくださっておりました。
  お父さんは、数年前からじょじょに体力が衰えてきて、最近ではそれが顕著になっていたんですが、体調をくずして、自宅に救急車を呼んで、今年の7月22日に入院された。急激に一層体力が落ちまして、そして一週間あまり。7月31日に87才で出直された。多臓器不全からの尿路感染症で、おしっこがでなくなって、じょじょに意識がとうのいていった。
  その間、子供5人、その配偶者5人、孫、14人、その配偶者5人。そしてひ孫7人が、立ち替わり見舞いに来て、今時と言いますか、みんなでラインのグループを組んで、お父さんを中心に、毎日写真を撮ってそれをアップしておりました。最後まで、みんなに温かく見守られて、そしてお葬式も大変賑やかにされて、ある意味、大往生だったんじゃないかなと思う。
  私たちも何度かお見舞いにやらせてもらったんですが、まだ意識があったときに、自分が耳を口元にもっていくと、か細い声で「すまんな」と言ってくださった。それが自分への最後の言葉になったのですが、その時は、お父さんは水を飲むことがまったく出来なかったんですが、その前に、平安西が、大教会の記念祭で頂いて、部内に分けて頂いた、小さなビンに入った教祖のお下がりのみりんを持って行ってまして、みそのがそれを綿にしみこませて、唇をしめらすことができたんですね。お道が大好き、教祖大好きのお父さんのことですから、それをとても喜んでもらえたんじゃないかなと思います。「すまんな」の言葉はそれに対する御礼だったのかなとも思う。とにかく、そのみりんのおかげで最後の最後に、少しですが親孝行をさせてもらえる事ができて喜ばせてもらいました。
  そんな多くの家族の面会を受けられる中、ひと組だけ中々面会に来られなかった家族がいたんですね。それは、お父さんの長男の長男とその息子であります。みそののお兄さんが教会長ですから、教会の後継者の孫とそのひ孫であります。言うなれば、お父さんにとって一番気がかりな、一番かわいい家族でありました。
  後継者の孫家族はおぢばにすんでおりまして、夫婦で少年会に勤務しているんてすが、7月末というと、子供おぢばがえりの真っ最中であります。特に夜のパレートでは、ディレクターを務めているので、いないと、パレートが動かない。その間お見舞いに行きたくても、行けない。そんな悶々としていた中、7月30日の夜は、たまたま、ある先輩が、1日だけ代わってやるから身体を休めろといってくれた。その数時間を見計らって、おぢばから神戸の日赤病院へお見舞いに来て、面会を果たしたんですね。そしてすぐに、孫家族はおぢばへ帰った。それから3時間後、31日になってすぐにお父さんは出直された。それまでも、何度も危篤状態を繰り返していたんですが、不思議と持ち直していた。もう意識はなかったけれど、その孫とひ孫が来るのをひたすら待っておられたんだと思うんですね。翌8月1日は、自教会の月次祭。大好きな自分の教会でみんながおつとめをつとめるのを隣の部屋で見届けて、2日遷霊祭、3日が告別式。賑やかにつとめられた。まるで、さきざきから計画していたような日程で事が運んだ。
  しかし、その席に、先ほどの孫家族は出席できなかったんですね。遷霊祭の夜に、孫だけでも無理矢理にでも数時間時間を作って帰ろうとも思ったそうなんですが、それもできなかった。それにはひとつ理由があったんですね。
  実は同じく、少年会でひのきしんしている奥さんが、臨月を迎えておりまして、もう子供がいつ生まれてもおかしくないという状態になっていた。だから、そんな奥さんをひとりおぢばに残しておいて何かあったらどうにもできないという事で、後継者の孫家族は、おぢばに残っているしかなかったわけですが、実際、こどもおぢばがえりが終わって2日後、お父さんの告別式から3日後の8月6日に3344グラムの元気な男の子の赤ちゃんが生まれた。
  そうなるとみんなは、お父さんがさっそく生まれ変わってこられた。せっかちなお父さん、おじいちゃんらしい、と口々に噂をしている次第であります。
  私たちが結婚したのが今から18年前。その頃、嫁の実家は、それ以前に阪神大震災で全壊した教会を建て直されて、家族みんなをそこへ呼び寄せて、力を合わせて教会を復興されている最中でありました。
  お姉さん家族、お兄さん家族、みそのと妹とお父さんとお母さん。鉄筋コンクリートの3階建ての教会に、大人、8人、小、中学生7人の15人が、同居されておりました。
  毎日が大変賑やかだったけれども、復興のため、大きな借財を抱えながら、大人はみんな外へ働きに出て、力を合わせて教会を建て直そうとされている最中。みそのもバイトを掛け持ちして、教会のために尽くしておりました。
  この教会は元々、兵庫県の内陸部にあります大教会の、神戸出張所として建てられたものでありまして、震災前は古い木造の建物で敷地もそれほど広くなく、信者さんもあまりおられなかった。みんな一生懸命でありました。
  そんな中、縁があったとはいえ、お父さんは私たちの結婚を手放しで喜んで下さって、みそのを私の教会へ、お嫁に下さった。お父さんには、本当に有り難い。深い深い恩があるのであります。
  それからのお父さんの道中は決して容易な道のりではありませんでした。借財を抱えて、時に返済が滞る中に、大教会から厳しい批判を受けたり、他から根拠のない中傷を受けるという事もあったんですね。そして時にはこの大切な教会建物を手放なければいけないという瀬戸際まで追い込まれる事も何度もありました。それこそ、口では言えないような苦労を通られていたわけですが、私たちの前では、そんな事は口にも表情にも出さず、いつもニコニコと明るく陽気に通って下さっていた。
  日乃丸のおじさんと同じく、お酒が大好きで、お正月や、休みに教会へ帰らせてもらうと、食事の時に一緒にお酒を飲むのを楽しみにして下さっていて、何度も何度もおちょこにお酒を継いで下さって、昔話を嬉しそうに話されている姿が今も思い浮かぶのであります。
  その、お父さんが我々にくださった物で、今も寝室に飾っているものがあるんですね。それは我々の結婚の時に、お祝いだといってくださった一枚の色紙であります。色紙に自分で墨書して、それを額に入れてくださったんですが、それにはこう書いてある。
「つないだ日、結んだ一日の日を 生涯の理に治めるなら十分」
  これは明治28年4月4日。辻とよさぶろうととめぎくとの縁談のお願いの時に出された、おさしづの一部分であります。
  このおさしづを自分なりに解釈しますと、「夫婦仲良く、家庭円満にすごすために必要なことはそれほど難しいことではない。親神様の前で結婚を誓った、今の心を生涯忘れずに、一生胸に納めて通ることが出来たなら、それで十分だ」といった意味でしょうか。
  今にして思えば。このお言葉に父親の娘夫婦を思う気持ち。幸せを願う切実な親心が込められているように思わせてもらうとともに、その当時、大変な道中を歩む中で、何か記念になるもの。お祝いの心が伝わる物を渡してやりたいという父の気持ちが伝わってくるのであります。
  今あらためて、お父さんから頂いた大きな恩を返せるように、これからの日々を歩ませて頂きたいと思っております。
  話は変わりますが、私の教会の庭に「箱根うつぎ」という木が植わっています。4、5年前からこまめに水と肥料をやりはじめたせいか、急に大きくなりまして、最近、春に、赤と白のきれいな花を満開に咲かせるようになりました。
  2年ほど前に、この木は「さし木」で増やせることを知りまして、この木を増やそうと思い立ちまして、枝の先を切って、水に浸けて、植木鉢で土にさしていると、たまたま枯れることなく根が生えました、それを地面に植えてみると、またまた大きくなってきて、来年辺り、教会の周りに、親の木のようにきれいな花が咲くと良いなと思って、楽しみにしているんですが、少し前、車で母親を病院へ送る途中に、ふとその木の事が頭に浮かびまして訪ねてみたんですね。
  実は庭に植わっている、他の木々と違って、自分はその木の苗を買って植えた覚えもないし、誰が植えたという話も聞かない。多分母親がどこからか苗を買ったか、もらって植えたのだろうと思っておりました。
  そこで、車の中で、教会の玄関向かって左手、柿の木の隣の木は誰が植えたのかを聞いてみますと、母親は、その木が何という名前かも知らなかったんですが、その答えを聞いて驚いたんですね。
  「あの木は、おばあさんがまだ元気だった頃に、宅祭に行くのに、桂のあるバス停でバスを待っていたときに、たまたま咲いていた枝を一本折って持って帰ってきて、さし木して、植木鉢で育てたのが最初なんやで」という事でした。
  私のおばあさん。清水みつえは、私が高校3年の時に出直していますから、それは、それ以前。それこそ私がまだ小学生か中学生だった頃の話であります。四十年以上も前に、おばあさんが、何気なく切ってきたものを、植木鉢で育てて、そしておばあさんが出直した後も、それを母が育てて、35年前に桂から宇治へ引っ越してきた時も処分することなくそのまま持って来て、ある時、庭に地植えして、そしてそれがたまたま枯れることなく大きくなって今に至っているんだという事。そして、自分も今、誰に言われることなく、昔おばあさんが、やっていたのと同じように、その枝を切って、さし木することを思いついて、今、その木を少しでも増やそうとしている。
  不思議だと感じると共に、おばあさんと自分が、思わぬ所でつながっている事を、突然知ることが出来た。また、あらためておばあさんのことを考えなおす機会を得て、色々と考えがめぐりまして、おばあさんは自分の教会の初代会長でもありますから。今こうして、孫である私が会長を勤めさせてもらっている事をどのように感じてくれているのかな。喜んでくれているだろうか。それとも、心配しているだろうかなあ、などとあらためて思いをはせることができた。
  その木のおかげで、出直して40年ちかくたつ祖母の事をあらためて考えることができたのであります。そして、また、その木が今も毎年きれいな花を咲かせていることを知ることが出来て、とても嬉しく感じまして、これからも、この木を大切に育てなければいけないなと思うことが出来た。知らなかったことが、母親に聞いたひと言で知ることができたのであります。母親も又その事を忘れずに覚えていてくれていた。
  思えば、自分のまわりにおられる人、物、出来事。すべては縁があって繋がっているのだと思うんですね。
  その縁の由来を知っていることも多いけれど、知らないでいる事もある。それこそ、知ることなく過ぎ去っていることは山ほどあるわけですが、それを、色々と聞いて知ることによって、ああ、そうだったんだ、とあらためて知ることもたまにある事でありますが、そのように感じることができるという事は、それは、とりもなおさず、まずは自分が今、生きているからこそであのます。そして、多くの物事が、今の自分とつながっているからこそ感じることができる。そしてあらためて思うのが、そういったつながりを知って、そのつながりを次の世代、又、次の世代へとつないでいくことが、私たちが、人として、より深く生きるという事なんじゃないかなと思うのであります。
  お道には「続いてあってこそ道という、続かん事は道とは言えん」というお言葉もあります。信仰も又、人と人、世代と世代の大きなつながりのひとつであります。信仰を受け継ぎ、考える事によって、先代、先々代の人々の思い。そして、その人達が孫やひ孫に託した思いを知ることができる。おもんばかる事ができる。そこに大きな親心を感じることができるんだと思います。
  多くの出直された、先輩、先生方の思いは、ただひとつであります。存命中より私たちにおかけくださった様々な親心の目的も又ひとつ。それは、この道を伝え導きたいという一条なのだと思うんですね。そして、われわれは今も、その心を肌身に感じて生きているのであります。
  前真柱様は、その事を、駅伝にたとえて話されることがありました。
  次の世代へ、信仰を伝えるという事は、ただ自然につながっていくというばかりではない。たすきを受けとった駅伝ランナーが、次の選手に手渡すように、そこには、大きな責任と苦労がともなっているという事ですね。私自身、子供の頃から今に至るまで、多くの先輩、先生方から受けた思いは、一重に、つなぎたい、伝えたいのこころ一条であったと思います。たとえその方がそれを声に出されなくても、その思い、心根はそうであったにちがいないと思うんですね。そんなことが今になって、親になって、そして、教会長になって実感として分かるようになってきたように思います。
  またまた、話は変わりますが、おちばでは、月次祭前後に、多くのセミナーや講座、講演などをされていますが、先々げつの25日にとても興味深い講演を聞かせてもらいました。
講師は「夏井いつき」という俳句の先生なんですが、毎週木曜日にMBS4チャンネルでやってる、プレバトという番組の俳句の先生。様々な芸能人が絵や料理やいけ花などで争って、才能あり、凡人、才能なしの評価を受ける。その中で一番人気の俳句の夏井先生は非常に辛口の物言いで、梅沢富美男や東国原さんなどのゲストとのやりとりがとても面白くて人気がある。自分も家族と夕食時によく見ていたので、聞きに行きました。天理市民会館、広い会場が一杯。時間になって、舞台袖から出て来た先生。番組ではいつも和服姿なので、和服かなと思っていると、白い洋服で、中央の演台に立たれて言われた第一声は。私は和服が好きではない。だから普段着物を着ないし、一着も持っていない。番組での和服姿は、テレビ局にお願いされて、半分喧嘩して断ってもどうしてもという事で、テレビ局が用意した和服を、人に着せてもらっているんだという事でした。言葉遣いはちゃきちゃきとしていて話し上手で、番組そのものの印象。愛媛県の松山市出身で、8年間国語の先生をしていたんだけど俳句のプロに転身して、それから俳句の魅力を伝えようと、高校生の俳句バトルである俳句甲子園を立ち上げたり、句会ライブというイベントをしたり中学、高校で俳句の講義をしたりしているという事でした。番組の裏話や俳句授業の様子、天理時報にも載っておりましたが、句会ライブの参加者とのエピソードなど、とても興味深い話を聞いている内に、自分も少し俳句をしてみようかなと思うほどになりました。
  先生は、俳句が少し好き。ちょっと興味がある。そういう人たちを「チームすその」とおっしゃっておりました。いきなり高い山の頂きに登る事は大変でも、すそ野で山を見守る事はそれほど難しいことではないですよね。そして、そのすそ野の人を増やしていく事が、その大きな山を支えることになるんだという事。この先生がテレビに出ることも、本を出すことも、句会ライブや講演や学校での授業も、すべてその「すそ野」の人を増やす事、俳句が好きだという人を増やす事が目的なんだという事をおっしゃっておりました。
  そして、この先生は本当に俳句のことが好きなんだなという事がひしひしと伝わってきたんですね。
  人に物を勧める時、まずは、自分自身がそれを好きであることが大切であります。私は、信仰の世界も同じだなと思いました。実際に、先生の話の中の、俳句という言葉の部分を信仰に置き換えるとしっくりくることがとても多くありました。
私たちは、「このお道を通ったならば、人生が明るくなりますよ、心の向きが変わりますよ 必ず幸せになりますよ」と、周りの人達に自信を持って勧める事ができるかどうかであります。
  先生は自らの活動を「俳句の種まき」ともおっしゃっておりました。「まいたる種はみな生える」と我々も教えて頂いているように、自分自身も又、信仰の種まきを、あらためてしていかなければいけないなと思わせてもらいました。
  私たちが、今、この信仰に繋がっているということは、多くの人たちが、私たちがこの信仰に繋がるように心をつかって、多くの種を蒔いて下さったおかげだと思います。だからこそ今度は私たちが、種を蒔かせてもらう。まずは子供や孫、周りの人達と、種を蒔く先は、限りなくあるのであります。そして、それを待っている人もいる。人は、教えないと知ることは出来ないし、導かないと歩くことは出来ないのであります。
  これからも、周りの人たちへの種まきを怠ることなく、私たちを育てて下さった多くの先輩先生方に喜んでもらえるように、また、教会長として親神様、教祖に期待して頂けるような日々の歩みをさせて頂きたいと思います。
ありがとうございました。
〜拍手