只今は、当教会9月の月次祭のおつとめを賑やかに滞りなく勤められましたことを共々にお喜び申し上げます。また、本日は皆様、それぞれに御用の有る中ご参拝いただき誠にありがとうございます。
  ただ今、新しい会長さんになって初めての月次祭、そのおつとめを賑やかに勇んで勤められ、そして、この後、会長となって初めての挨拶をされるわけであります。
  そんな間に挟まれまして、この私、何を話すのかという事ですが、これも大切なお役目ですので、蛇足になるかもしれませんが、少しの間つとめさせていただきたいと思いますのでよろしく御願いいたします。

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 もう、随分前の話になりますが、今、小学校6年生になります長女が、幼稚園の時だったと思うんですが、将来の夢について話してたんですね。おおきくなったら、あれになりたい、これになりたいと希望を言っていた。すると、娘が、おもむろに「お父さんは子供の時、何になりたかったの」と聞きますので、少し考えまして「ああ、小学校の先生かな」と答えますと。「なぜならなかったの」と聞くんですね。
  そこで「小学校の先生になろうと思えば、すごく勉強して難しい資格を取って、試験に受からなくちゃなれない。お父さんはそんなに頭良くなかったからなれなかったんだ」と答えますと、娘はすかさず「それじやあ、教会の会長さんは頭良くなくてもなれるの?」と聞くんですね。私は思わず黙ってしまいました。
  その時、私は教会長に成って2、3年という頃だった。娘も、お父さんは教会の会長さんだと何となく分かっていたんだと思うんですね。
  確かに、世の中にある様々な職業、特に、教師や弁護士、税理士、医師など、先生と呼ばれる職業に就こうと思えば、なかなかなることはできない。大変な努力をして資格をとって、そして採用されなければなれないですね。それに比べると、天理教の会長は、講習を受けて、検定に合格しなければなれないということはありますけれども、なろうと思えば、まず、なる教会がある事が前提ですが、それほどハードルは高いとは言えないと思うんですね。しかし、そこで娘に何も言わないわけにはいきませんので、苦し紛れに、「会長さんに成るのはそんなに難しいことではないかもしれないけれど、立派な会長さんになるのは大変なことなんだよ。」と言った。娘は「へー、そうなんや」と答えて、その話題はそれまでになったという事がありました。
  何気なく答えたその言葉ですが、会長になって10年近くになりますが、今になって身に染みて感じるようになってきた。「それは、一人前の会長になるのは難しい事だな」という事であります。
前の表統領先生が、教会長講習会でこのような事をおっしゃっていました。
「我々は、本物の会長になりたいと思う。それでは、本物とは何か。本物とは、本物を目指して努力するところにある。本物を目指して努力することをあきらめた時、それは本物ではなくなる。」「自分はだめだ、こんな事はできないと投げ出していては本物にはなれない。また、自分はえらい、何でもできる、何でも分かると努力をしなくなったら、その人はもう既に本物の会長ではない」
身に染みる言葉であります。
  逃げることなく、おごることなく、日々、努力することを忘れずに通らせていただきたいと思うのであります。

 先日、ある若い会長さんから、なるほどなと感心する話を聞きました。少年会などで話されているらしいので、皆さんもご存じかも知れませんが、箱とその中身の話であります。
「ここにひとつの箱があります。しかし、この箱は、入れる物によって呼び名が変わります。薬を入れれば薬箱。おもちゃを入れればおもちゃ箱、針と糸を入れれば裁縫箱。宝物を入れると宝箱になり、宝石を入れれば宝石箱になる。しかし、この箱がどんなに美しくて高価な物でも、そこへゴミを入れればゴミ箱になる。私たちの身体も同じ事が言えます。」という話です。
  この身体は神のかしもの。心ひとつがわがの理と教えられます。まさに、この箱は私たちの身体。そして、その中身は私たちの心という事が言えるでしょう。また、私たちは親神様に心の自由をお与え頂いているわけですから、箱の中に何を入れるのかは我々の自由であります。言いかえれば、その箱、すなわち我々の身体は我々の心そのままだという事であります。心の使い方、考え方ひとつで我々は、救急箱にも貯金箱にも、裁縫箱にもそして宝箱にもゴミ箱にもなるという事です。どんなに大きな力強い身体を持っていても、どんなにきれいな服や宝石で飾っても、肝心な中身がそれに伴わなければ、立派な人間とは言えないという事であります。
  これは、建物や教会にもあてはめる事ができると思います。どんなに大きくてきれいな教会でも中身がそれにともなわなければ立派な教会とは言えないし、また、どんなに小さくて、古い教会でも、中身が素晴らしければ、そこは宝箱にも宝石箱にもなることができるという事です。

 立派な教会になるために我々が心して行わなければならないことは何かといいますと。それは、取りも直さず、おつとめとおさづけそしてひのきしんであります。
先に述べました講習会で表統領先生はこんな話もされておりました。
「 教会へ来る人はみんな、大きなほこりの袋を持ってくる、そして、教会でその袋をぶちまける。教会長はその人と一緒に、そのほこりを吸いながら日々を送る。教会はほこりがたまるのがあたりまえ。だからこそ、我々は教祖からお教えいただいている、つとめとさづけとひのきしんを毎日実行しなければならない」
  教会はたすけの道場とお教え頂きます。それは、多くの人が多くのほこりを持ち寄って、皆で一緒に掃除していくところなんだという事です。
  また、ほこりを払うには動くという事が大切だともお教え頂きます。これは、とかく、座って何かをするのが好きな私自身の注意点でもあるのですが、重い腰をあげて、身を軽くして動く事。ひのきしんや御用に動きまわる事が大切だという事です。「動く物にはほこりはたまらない」。そのとおりだなと思います。

 私の教会でも、今、両親に身上を見せられております。しかし、おかげさまで、我々は、心がふさぐというよりも、逆に勇んだ心を与えて頂いていると思います。以前はおつとめにも出なかった弟が毎夕おつとめをした後に、母親におさづけを取り次ぐ姿を見せて頂いたり、娘たちもおじいちゃん、おばあちゃんの為に何かとお手伝いしてくれるようになりました。自分自身も、今まで頼んでいた事が頼めなくなったという不便はありますが、甘えることができなくなった分、多少自分に厳しくなれるようになったんじゃないかなと思う。妻も本当によく、両親の世話をしてくれています。私は常々、様々な節をいただいたとき、そこでいずんでしまうか、そこから立ち直るかは、本当に紙一重だなと思うのですが、我々がこのように感じられるのも信仰のおかげだと思いますし、また、この身上を通して親神様、教祖の思いも何となく分かるような気がするのであります。

 さて、今、平安西分教会につながる我々は大きな喜びの旬を目前に控えているのであります。来たる10月3日に迎える、平安西分教会創立110周年記念祭、並びに五代会長就任奉告祭。特にこの度は、新しい会長の就任をお祝いする記念祭であります。
  私はこの度会長になられました、道治さんとは、同じ昭和39年生まれという事もあって、生まれたときから幼なじみとして育てていただきました。今、鼓笛隊に集まっている子供たちそのままに、幼い頃より遊んで、学ばせていただいた仲であります。
  今までは、道治君、道治君と気安く呼んでおりましたが、これからは、会長さんと呼ばなければならないなと、思ってるところなんでありますが、私はいつも、この会長さんの通り方をみて、感心するところがあるんですね。私たちは、若手若手と思っておりますが、実は、来年には50に手の届く立派な中年男性なのであります。しかし、その中をいつも低い心で、青年の心持ちで、その態度で日々歩まれている姿を見るとき、すごいなと感心する。いつもニコニコとして、怒っている顔を見たことがないですね。なかなかできることじゃないなと思っているのであります。
  話は戻りますが、立派なよふぼく、立派な会長とはどんな人なんでしょうか、私は、それは、親神様、教祖に喜んでいただける、親神様、教祖に可愛がっていただけるような歩み方のできる人なんじゃないかなと思うんですね。当然それは、ペーパー試験や面接試験で計れるものではありません。だからこそ、教会長の資格試験と教員試験などとは違って当たり前だと思うんですね。
また、十年に一度つとめられる記念祭は、我々のこの十年のつとめ方を見つめ直すと共に、これからの十年間を無事、健康に充実してつとめるための礎となる大切な旬でもあります。
  私たちの心は、時に移ろいやすく、ふとした油断からじょじょにネジが緩んでいくように、心がゆるんでいくこともあります。
  こうした、自分自身のネジを締め直すきっかけを、我々は、それぞれで見つけなければならないわけですが、与えられる旬を通して、見つめることも大切なことだと思うんですね。それが、我々お道の者にとっては、十年に一度つとめられる教祖年祭であり、平安西につながる我々にとっては、この10月3日に行われる記念祭であると思わせて頂きます。
  旬とは、種まきの旬であると共に、車で言ったら車検、身体で言ったら健康診断のようなものとも言えるんじゃないかなとも思います。この機会に、それぞれの心の方向ををしっかりと定め治して、点検もして、我々が今こうして結構に過ごさせて頂いている事に感謝し、また、私たちの今を生み育んでくれた親親の思いを今一度しっかりと見つめ直して、次の10年を結構に歩ませて頂けるように、心作り、理作りをしっかりとさせていただきたいと思います。そして、何より、皆でこの喜びの旬を、盛大にお祝いさせていただきたいと思います。
  ご清聴ありがとうございました。

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