只今は、当教会7月の月次祭のおつとめを賑やかに滞りなく勤められましたことを共々にお喜び申し上げます。また、本日は皆様方、台風来ております雨の中、月次祭にご参拝いただき誠にありがとうございます。
  お役が回って参りましたので、少しの間ですが、つとめさせていただきたいと存じますのでよろしく御願いいたします。

〜拍手〜

 人には、思いこみというものがございまして、その思いこみが外れますと、とてもショックをうけるんですね。私事ですが、最近そのような事がありました。それは、この頭の事なんですが、私は小さい頃から、髪の毛が太くて硬い、そして父親を見ても、父方母方、のおじいちゃんを見ても、血のつながった人で頭の薄い人はいない。死ぬまで薄くなる事はないと信じてたわけですが、最近、頭の前の方が寂しくなってきた。信じられないっていう気持ちなんですね。私は昔から、頭の毛は容赦なくザクザクと短く刈っていたんですが、だんだんと薄くなってきますと、なんだか刈るのが惜しくなってくるんですね。しかし、そうも言ってられませんので、先日散髪に行こうと思いますと、嫁が急に散髪に行くな、と言うんですね。なぜかと聞くと、散髪したての短く刈り上げた青い頭を見るのが毎回嫌だというんです。私、今年で結婚して10年になるんですが、十年もたって知る真実といいますか、相手の気持ちというものは夫婦でもわからないものなんだな、と思いました。まあ、だんなの頭のことまで今だに興味を持ってくれているというだけでもいいとしょうかと思ったんですが。そういう事もあって、この前は嫁さんに髪を切ってもらったんですけれども、まあ、いつまで続くかわかりませんが、こういうのもいいかなと思っております。

 先ほど、結婚して10年と言いましたが、結婚当初から家族で寝ている部屋にある額を掛けているんですね。結婚の時に嫁の父親から頂いたものなんですが、色紙にある言葉が書いてある。それは、
「繋いだ日 結んだ日を生涯の理に治めるなら十分」という明治28年4月4日のおさしづ。このお言葉は本来、おさづけを頂いた時の心を一生持ち続けることが大切だ、という意味のものらしいですけれども、父は我々に、結婚してすぐの今の気持ちを大切にして生涯持ち続けて欲しい、と願ってこれをくれたんだと思うんですね。
  結婚前、私は36才で結婚しましたが、当時にしても遅い結婚だった。私は、気楽に構えてたんですが、私の母親が焦って焦って仕方なかったんですね。当時、会長であった母親とは、今もそうですが、平安西や大教会、おぢばに参拝に行くときも、講社祭りに行くときも私が運転手でいつも一緒。教会内でも、父親や弟は教会のことはあまりわかりませんので、母親とは、親子であり仕事仲間みたいところがあるんですが、となると色々と意見を言い合ったり、時には口論になることもある。しかし、結婚前のある時期はそれがきまって最後には、あんたが結婚してないせいや、で終わるんですね。何があっても、「あんたが結婚してないからや」に行き着く。ある時、平安西の月次祭の帰りに車に乗ってると、母親が、「もう平安西に行きたくない」というんですね。なぜかと聞くと「誰々には嫁がいる、誰々には孫もいる、私にはいない、みんなと話が合わない、寂しい」という事。
  それから、ある時、自教会で、何気なく食堂の机の上を見ますと、小さな紙切れがおいてある。今でも覚えてますが、夕方の誰もいない食堂。読むつもりはなかったんだけど、たまたま手に取った。それにはこう書いてあった。
「孫の歌 聞いても 悲しくなるばかり」
どういう意味だろうなと思いましたが、すぐに思いついた。
  当時、大泉逸郎(おおいずみ いつろう)の「孫」という曲がヒットしていたんですね。
「♪なんでこんなに可愛いのかよ 孫という名の宝物〜」で始まる曲です。
  テレビから流れるこの曲を聴いても母は、ああ悲しい、ああ寂しいとしか感じない、という意味なんでしょう。
  私は、これを読んで、ガックリと力が抜けた。それと同時に、ああ、母親はこんなに寂しい思いをしているんだな、と実感してしばらく落ち込んだんですね。

 それから、しばらくして、私は嫁と出会って結婚した。今では、子供も2人できて、幸せに暮らさせて頂いています。本当にありがたいと思います。それでも、時には夫婦げんかするときもありますが、今でも時々、あの時の場面が頭に浮かんでくるんですね。
  「ああ、あの時のことを思えばいまは結構やな」と思う。夫婦は拝み合って通らせてもらわなならんなと思う。
  でも人は忘れるんですね。嫌なことは忘れるからいいんですが、大切な事も忘れてしまう。先ほどのおさしづ「その時の気持ちを一生忘れずに持ち続ける事ができれば、それだけで十分だ」という言葉。これは、結婚だけにあてはまる言葉ではないですね。教会であれば、その教会ができた日、奉告祭の日のその当時の人の心。会長にあてはめたなら、お運びをして神様に認められた日、そして、奉告祭をつとめてみんなに祝って頂いた時の心、会社なら会社を設立した日、人なら、入学した日、入社した日、子供が生まれた日、その節目節目で感じた心を忘れずにずっと持ち続けられたなら、それで十分だという事なんですね。

 教会といいますと、私が担任しておりますのは、桂平泉分教会という教会ですが、その前身の平泉布教所の初代所長が私の祖父、清水重延であり、私の祖母の清水み津重が初代会長であります。先日祖父の50年祭と祖母の30年祭とをつとめさせていただきました。御参拝いただきました方々には、お世話になり誠にありがとうございました。
  この重延、み津重夫婦には、子供が四人あったんですね、長男、長女、次女、次男。その長女が私の母で次女が日乃丸分教会の奥さんです。しかし、長男が八歳の時に出直した。また次男も幼くして出直したんですね。どちらかでも生きておられたら私もここでこうしている事はなかったかもしれませんが、しかし、考えてみますと、子供を次々と亡くした夫婦の気持ちはどうだったろうかと思うんですね。私にも子供が2人おりますが、子供をなくすなんて想像できないですね。当時は今に比べて、医療技術も発達していなかったので、子供を亡くすという事は多かったかもしれませんが、それでも、心が痛かったろうと思うんですね。特に祖父の重延は、先妻と初めての子供を、子供が生まれてすぐに両方とも亡くしているんですね。長年信仰してきて、どうしてこのような事が続くのかと考える事もあったと思うのですが、それからも熱心に信仰を続けてくださった。しかし、この祖父は初孫である私が生まれる半年前に出直したんですね。もうすぐ生まれるということはわかっていたと思いますが、結果として一人の孫の顔も見ることはできなかった。しかしこの前の年祭で、多くの子供たちが遊んでいる姿を見て気づいたんですね。
  重延、み津重夫妻の子供、私の母と、日乃丸の奥さんは夫婦で参拝している。その孫、私、弟、妹、日乃丸の健一、あつ子も夫婦であるものは皆夫婦で参拝している。ひ孫も小学校四年になる私の娘のみづほと日乃丸の美月から、この4月に生まれたばかりの私の妹の息子の陽万(はるま)まで九人全員が参拝してくれている。私の祖父は生前中、妻を亡くし3人の子供をなくし、ひとりの孫の顔も見ることはできなかったけれども、出直して50年たって、ひとりも欠けることなく、娘夫婦からひ孫まで22人が揃って参拝する事ができた。おじいさんは喜んで下さっているのではないかと思ったんですね。それとともに、今こうして我々が幸せに暮らさせて頂いているのは、重延、み津重夫婦がどんな難渋の中も信仰を捨てず、疑わずに通って下さったおかげであるんだな、これが御守護の姿なんだと感じたんですね。
  また、30年祭を迎えました私の祖母は、覚えてられる方も多くおられると思いますが、若い時から布教熱心で、教会を設立するまでは嫁には行かないというほどの人だったそうですけれども、縁あって清水家の人となりました。私は、祖母には非常にかわいがってもらった記憶があるんですね。それには、教会の後継者としての期待というものもあったのかもしれませんが、生前中は特別に、将来会長になってほしいなどとは言われた事はないんですが、今、祖母が自分を見たらどう思うかなと考えることがあります。
  この平安西の講話のお役は、おおよそ2年に一度くらいで回ってくるんですが、不思議なことに講話が当たる前になると、祖母の夢を見るんですね。以前も同じような事を話したような記憶があるんですが、今回も、同じく夢を見たんですね。
  あるコンクリート作りの部屋の一室で、私と祖母が向かい合って座っている。祖母は私に色々と話をしてくれているんですが。祖母の顔は真剣で全くの無表情なんですね。しばらくして私は帰らなくてはならないと思いまして、私は祖母に「最後に僕に何か言うことはないですか」と聞くんですね。私は内心、何を言われるのかハラハラしている。「もっとお尽くしをしなさいとか、別席者をつくりなさい」とか言われるんじゃないかと心の中で思ってるんですが、そこで祖母が言ったのは、「拝んで欲しい、もっともっと神さんを拝んで欲しい」っていう言葉だったんですね。そこで私が「いつも朝夕のおつとめとか月次祭とか講社祭で拝んでるけど足りませんか」と聞きますと、「たらんな〜」と答えるんですね。それから、そこにいた多くの人と「ありがとう、ありがとう」と握手をしてその建物から出て海岸を歩いているうちに目が覚めた。 
  朝方見た夢なので、鮮明に記憶に残った。それから、二つのことを思ったんですね。
  まずは、私自身の信仰姿勢という事。私たち信仰者にとって何が一番大切なのか、それはやはり、おつとめなんですね。まずは親神様教祖を心から信じ仰ぎ、おつとめを真剣につとめる。朝夕のおつとめや月次祭や講社祭などの、決められたものだけではなく、日頃から自ら進んでつとめる事が大切なんだという事、日々の暮らしの中で形をつとめる事にとらわれて最も大事な自ら求めてつとめる心がなおざりになっていたのではないかと反省しました。
  それと、東日本に多くの祈りを必要としている人たちがいるのではないかと思いました。その夢を見たのが3月27日、本部の霊祭の日です。震災より二週間あまりしたたっていない頃だったので特にそう思ったのかもしれませんが、テレビで見た、火葬もされず祈りも受けずに土に埋められた人たち。家や車や物たちと共に海に流された人たち、多くの霊(みたま)が祈りを必要としているのではないかと思ったんですね。災害救援活動や炊きだしのひのきしん、そして支援物資を送ったり募金をするなどの活動とともに、我々は信仰者として、被災者のために祈るという事を忘れてはならないと思いました。
  震災直後から連日続いた報道の中で、私は今も心に残る場面があるんですね。それは、3月15日の朝のめざましテレビで流れていたんですが、避難所で生活する、小学校高学年くらいの女の子へのインタビューでした。その中で彼女は、「家がない、家族もいない、ごはんがない、今まで、どれだけ幸せだったのかがわかりました」と涙ながらに答えていたんですね。私は、これを見たとき、この言葉が胸に迫って涙が流れてきた。それから家族でごはんを食べる時、お風呂に入っているとき、夜寝るとき、この言葉がふと頭に浮かぶんですね。当たり前の日常が、当たり前の生活が、どれほど幸せで、どれほど尊いものなのか、という事をこの言葉が教えたんですね。そして、私も何とかしなきゃいけないと思った。
  その中で、先日の「なでしこジャパン」の優勝は、我々に勇気を与えてくれました。私はサッカーはほどんど見なくて、興味もないんですが、たまたま朝テレビをかけたら丁度あのPK戦の様子だった。勝った瞬間とても感動して、これは震災復興の大きな象徴になるんではないかと思いました。そして、大きな期待とプレッシャーの中で優勝した「なでしこ」ジャパン。やはり日本の女性の力は大きいなと思いました。
  また、先日おぢばで行われた教会長おやさと研修会で、表統領先生がとても興味深い話をしてくださいました。それは「陽気ぐらしと極楽はどこがちがうのか」というものでした。極楽とは、仏教用語で「全く苦しみや患いのない安楽な世界」を意味します。しかし、これは我々の目的とする「陽気ぐらし」とは随分と違うとおっしゃるんですね。陽気ぐらしで最も大切な事のひとつはたすけあって生きるということです。これが親神様が一番お望みになることです。しかし、極楽の世界では、我々は助け合う必要がなくなってしまう。これでは、親神様にとってはまったく面白くない世界になってしまいます。陽気ぐらしとは、苦しみや患いがあっても、助け合って実現できる、苦しみや患いがあっても味わえる、むしろ助け合うことによって、深い陽気ぐらしを味わえるのではないか、ということでした。
  なぜ神様はこんなにも大変な災難を我々にお与えになるのでしょうか。その正しい答えを出せる人はいないのではないかと思います。ただ、今、我々は皆が心して助け合わなければ乗り越えられないほどの大きな難渋の中に身をおいている。そして、親神様教祖はこの難渋の中でも、助け合っていきる中に陽気ぐらしは求められるんだとおっしゃっているんですね。どんな些細なことからでも、自分のできることから、私たちお互いは、お道の者として、このたすけあいの道を歩ませて頂きたいと思います。

ご静聴ありがとうございました

〜拍手〜