只今は、平安西分教会6月の月次祭を賑やかに滞りなく勤められましたことを共にお喜び申し上げます。また、本日は皆様お忙しい中、月次祭にお集まりいただきありがとうございます。
  私、桂平泉分教会の会長をさせていただいております、清水信孝と申します。一昨年の九月に任命のお運びをさせていただき、本日は初めての神殿講話を勤めさせていただきます。見ての通りの若輩者でございますし、また、感話にもならないようなお話ししか取り次がせていただけませんが、どうぞよろしく御願いいたします。
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さて、実は、私、明日が誕生日でして、明日で四十二歳になります。四十二歳というと世間では厄年と申します。厄年には「役をもらうといい」と申しますが、このお話当番も大切な「お役」のひとつでございまして、お話しさせていただくことによってしっかりと厄もはらっていただければな、と思っております。

会長の先輩に以前聞いた話ですが、一番最初のお話のときは話すことは決まっている、皆知らない人が多いから、自己紹介を兼ねて、今まで通ってきた道を話させてもらったらいいのだ、と聞きました。「今まで通ってきた道」と言いましても私の場合、何も波瀾万丈な人生を歩んだ訳でもありませんし、全く、平々凡々と流れに任せてここまでやってきたという感じでして、何の面白みもありませんが、その中でも少し、信仰的な転機になった出来事をお話させていただきたいと思います。私が十代後半、また二十代前半の頃の話ですので、「何を甘いことを言ってる」とおしかりを受けるような内容になるかもしれませんが、お詫びします。

 私が今受け持たせていただいている教会、桂平泉分教会の元を辿ると、平安西でお世話になっておりました私の祖父、清水重延と祖母、み津重が結婚を機会に、夫婦で布教を始めたことに始まると聞きます。 昭和十年十二月。計算してみますと今年で丁度70年になります。それから、布教所、教会となり、祖母が会長を務めていたわけですけれど、私の家は教会でしたが、当時小さな普通の家を改造したような教会でして、父親も働いておりましたので、天理教について、教会についてあまり真剣に考えたことはなかったですね。遠い将来に教会の会長さんをするのかな、という位です。高校時代も部活動をしていたということもあったんですが、学生会の活動もほとんどしていませんでしたし、学修にも行ってなかった。信仰についてはあまり熱心とは言えなかったといえます。将来についても本部勤務であるとか、天理教を仕事にするということは更々思っておらず、父親が公務員でしたので、しばらくはどこかの公務員になれたらいいな、くらいに思っていました。
  そうしますと、高校三年も終わり頃になり、進学を希望していたので、どこへいこうかと思っていましたが、あまり勉強していなかったので、希望していた大学は落ちてしまった。ただ、天理大学にはかろうじて受からせていただきましたが、受かってから、本来志望していた他の大学へ行きたくなった。そこで父親に、「自宅生でもいいから一年間浪人させてほしい」と掛け合っていました。今から思えば何と贅沢なことを言ってるのかと思いますが。そうすると、月次祭の日が来ました。2月か3月か覚えていませんが、日頃は学校があるので出られませんが、その日は出てたんですね。それから直会になって、ふとしたことから、その話題になった。「天理大学には行きたくない、浪人してでも志望校へ行きたい」などと言っておりますと、信者さんの中でも色々な意見を言ってくださる方がいました。素直に行った方がいいという人。社会勉強のために天理の学校ではないほうがいいという人。などなど、そうすると、上座から、その当時私の教会の世話人だった、先生が横にこられて話された。それまで、年配の先生でもあったし、私も若かったのでほとんどしゃべったことがなかったんですが、先生はそれまでにはない強い口調で「何を迷っているのや天理大学へ行けばいいがな」とおっしゃって、ある話をしてくださったんですね。昔のことですので間違っているところもあるかもしれませんがこういうお話しでした。「自分は昔、天理外国語学校へ行っていて、戦争の為徴兵されて、検査を受けた。しかし、たまたまその時、体調が悪くて、一番いいクラスの合格ではなく格下の合格(甲種ではなく乙種)だった。同じ時に受けた友達は皆、一番優れたランク(甲種)の合格で士官候補生になったのに、自分だけはみんなよりひとつ下の位にされてしまった。その時、なぜ自分だけがこんなめにあわなけりゃいけないのか、となげいたけれど、戦争が終わってみれば、出世したと思った友達はみんな戦死してしまっており、出世から見放されたと思っていた自分は無事生き残った」とおっしゃって、「今、これでいいのかと不安に思ったり、納得できなくても、将来必ず、この道を進んで良かったと思える日がくるから、天理へ行きなさい」とおっしゃたんですね。「ああ、そんなもんかな」と、この先生の助言もあって、天理大学に行かせていただいたのですが、この24年前の選択が正しかったかどうかは分かりませんが、しかしそのおかげで、今こうしてここでお話をさせていただいたり、今、私はとても幸せに暮らせていただいておりますので、少なくともあのときの選択は間違いではなかったと思わせていただきます。今にして思えば、あの時の選択も、それから多くあった重要な分岐点のひとつだったな、と思います。

 天理大学での生活はそれまでとの生活とは一変するもので、毎日が新鮮で驚きでした。特に、学生会活動に誘われて活動している中に、天理教ってすごいんだなと思ったり、同じ学生で、こんな天理教的な純粋な考え方をする人がいるんだとか、それまでも天理教について在る程度知っているつもりでしたが、やはり同世代から受ける影響はすごいですね。親や周りの人たちから、今まで言われてきたことも、友達から言われると素直に受け取れる。これは、学生年齢層の特色と思いますが、そこにも、学生会活動の重要性を感じます。

それからその後、こんなことがあったんですが、大学四年の時、こどもおぢばがえりの京都教区の少年ひのきしん隊に私の教会から四、五人行ってくれましたので、初めてひのきしん隊の付き添いをさせてもらった。子供ミュージカル劇場の出演やひのきしんなどみんながんばってくれていたんですが、最終日の前日、講話の時間にある男の子が頭が痛いと言ってきた。その子は私の教会の男の子だったんですが、会場から出して通路の長椅子に寝かせて、電話で先生に車で迎えに来ていただけるように頼んで待っていた。長椅子で寝ているその子の横で車を待っているとき、ふと「おさづけ」を取り次がせてもらおうかな、と頭に浮かんだんですね。恥ずかしながらおさづけの理をいただいてそれまで、ほとんど取り次いだことがなかった。それから、その前を通り過ぎる多くの人を横目で見ながら、「どうしようか、どうしようか」とモジモジ考えている内に、ついに、おさづけを取り次ぐ前に、迎えの人が来られた。彼は連れて行かれた。まあ、それほどたいしたこと無いだろうなと軽く思っていたのですが、講話が終わって、子供たちと一緒に宿舎へ戻って来ると、その前に救急車が停っていた。もしかして、と思って近づいてみると、その男の子が連れて行かれるところだったんですね。そのとき、私は激しく後悔しました。なぜあのとき「おさづけ」を取り次げなかったのか、と。そのあと、宿舎で色々と仕事をしておりますと、病院から彼が意識不明の重体だと連絡が入った。そして、京都教区少年ひのきしん隊全員でお願いづとめをしていただき、スタッフみんなで神殿へ行ってお願いづとめをしたんです。その当時私は二十二歳だったけれど、それまでで一番真剣に神様に御願いしたと思います。するとそこでいらぬ心配が頭をもたげてきた。もしもここで彼が亡くなったどうしよう。もしもそうなったら本当に申し訳ない。そして、自分は一生後悔し続けるに違いない。あの時、おさづけできなかったことを一生悔やみ続けるに違いない。その時初めて、これからは親神様の御守護を信じて疑わず、おさづけの取り次ぎもいつも躊躇せずにさせていただきます。と心定めさせていただきました。
  病院へ着くと、もう夜になっていましたが、彼の様態は好転していました。聞くと、長期間トイレに行っていなかったための強度の便秘とのこと、声を掛けても返事しないので重体という診断だったが、意識がなかったわけではなく、苦しくて返事できなかったという事でした。

 このようなお言葉があるのかどうかはわかりませんが、私は常々「ふと浮かぶのは神心」だと思っています。日々の生活の中で、ふと、こうしようか、こうさせてもらおうかと思うことがある。これは、自分が思ったというだけでなく、御守護を頂くために神様がそう思わせていただいたということなんだと思うんてず。にをいがけ、おたすけ、おつくしなど、そう思ったときは、なるべく素直に実行するようにしています。

 意識不明だった彼も、おぢばの病院で、周りの方々の真実によって御守護頂いたのに違いないと思います。彼は今三十歳を少し超えた年齢ですが、今も、私どもの月次祭には仕事の休日をあてて参拝してくれています。また、今年の一月に父親が出直してからは、親に変わってその家の神様を守って毎月の宅神祭を勤めてくれています。文字通り、私の教会には無くてはならない大切なよふぼくに成長してくれています。この出来事もまた、私にとって神様を真剣に考える大切な分岐点となったように思います。

これからお話する内容は、あまり心の勇む内容ではないかもわかりません。ある方が、神殿講話というのは、聞いている人間の心を勇ますためにあるのだと言った人がありましたが、それからすれば、聞きようによっては心が暗くなる方もいるかもしれませんが、あえてお話しさせて頂きたいと思います。

私は、大学を卒業して天理教本部へ三年間勤めさせていただきました。学生事務局といって、学生会を管轄する部署だったのですが、当時は総務課の部内でした。総務課には色々な部署が所属していました。天理教発掘調査団という文化財の発掘をしている部署、辞令や正式文書などのタイプを打っているタイプ室。各詰所に流れる放送を流すところ、ジテンなどの難しい本を作っている教養問題研究室など。僕の同期で、その教養問題研究室という部署に僕より一つ年下の○○くんという人がいました。彼は、頭がいいだけではなくて、顔も良くて、おまけに性格もいいという完璧な人物でした。同期の女の子はみんな、彼を素敵、かっこいいと言っている。僕なんかまったく見向きもされませんが、同期の集まりの時に彼にそれを言うと、えらく恐縮した様子で「そんなことないですよ」っていう感じが、また謙虚でいいんですね。
  それから半年くらいたった時に、彼が入院していると聞いたんです。大腸の具合が悪いらしくて、大腸を切除して人工肛門をつけなくてはならないといいます。まだ、二十二、三歳の若さなのに、大変だなあ、かわいそうになあと思った。しばらくして、同じ部署の人たちと一緒にお見舞いに行きました。彼は、ベットに座って点滴を打ちながら疲れた様子でいました。ぼくらの姿を見つけると少し笑って、「すみませんね、ごめんなさいね」と僕たちに疲れた様子であやまるんですね。なぜあやまるのかと聞きますと「せっかく来てくれたのに、もっと元気な姿をお見せできなくて申し訳ないです」といって繰り返して謝るですね、それを聞いてこっちが恐縮してしまって、その日は帰りました。
  それから二ヶ月ほどたったある日、私の勤務場所に行きますと、同じ部署の先輩がやってきて、真剣な顔でこういった。「○○君、昨日出直したわ」と。ええっとその時、僕は一瞬目の前が真っ白になった。それからとっさに「ああ、この世の中に神様なんていない」と思った。神様がいたならば、あんないい人間、あんな優秀な人間を死なしてしまうことなんて絶対にない、と思ったんですね。しかし、それからすぐにそれとは真逆に「本当に申し訳ない事を思ってしまったという思いが体中を駆けめぐった」。
  考えてもみると「私は、自分自身、結構にも、体中何一つ故障のない身体をお貸し与えていただいていて、そして毎日を生かせていただいているのに、彼が亡くなったと聞いたとたんに、神様がいないと思ってしまった。神様にも申し訳ないし、何よりも亡くなった○○君に本当に申し訳ない心を持ってしまった、と反省しました。そして、心の中で彼に謝ったんですね。今もよく思うんですが、もしも、あの時、「神様はいない」という考えのままでいたならば、私は今ここにこうしてはいられなかったと思う。でもそこで、「申し訳ない」と思わせていただけたのは、神様のおかげであり、子供の頃からそれまで私を育ててくださった、多くの方々の教えがあったからこそだと思う。

 彼の葬儀はある詰所の大広間でありました。多くの方が参列されていた。喪主は彼のおじさんがされていた。その時初めて知ったのですが、彼の両親は小さいときに同じ病気である「大腸ガン」でなくなっていた。また、彼には兄弟は無く、小さい頃から詰所で預けられて育った、とても孤独な身の上だった。彼はそんな身の上でもぐれたり、道を外れたりせずに、がんばって勉強して、天理高校の二類を一番で出て、将来、海外布教にと外国語の勉強を志して、国立の大阪外国語大学の中国学科を出て、本部勤務していたという事でした。私は親神様の真意はわからないけれど、彼はすぐにまたこの世界へ生まれ変わってきて、この世界に無くてはならない重要な御用を担われるに違いないと確信しました。これもまた、私がお道だからこそ言えること。彼の死は無駄死にではないと信じました。彼とは親友と言うほどの深いつながりではなかったけれど、先日、荷物の整理をしていてふと、彼の年賀状が出てきまして、久しぶりに彼の事を思い出しました。

 この出来事もまた、私の人生の中での分岐点のひとつだったと思います。

 神様はその人その人の性格、特性を見て、それぞれに適した持ち場立場をお与えいただいているのだと思います。また、それぞれの人はそれぞれの人でその人に合ったおみちの通り方というものもあるのかもしれません。多くの節や難関を乗り越えておみちをつかむ方、多くの仕事経験を経ておみちは素晴らしいと実感される方、私のいままでの道すがらを考えてみても、神様は何も無理なことはお与えいただいていないと思います。できることをできるようにお与え下されている。特に私は不器用ですぐに頭の中がいっぱいになってしまう性質。もしも、社会勉強だと思って他のことをしていたら、その場所の事で頭がいっぱいになって、おみちとは疎遠になっていただろうな、と思います。神様はそれをご存じでいて、ひとつひとつの分岐点で私にあった道へ上手に導いてくださったのではないかと思うんです。また、先輩先生方の何気ないひと事もその人の人生を左右するきっかけになることも考えられます。だからこそ我々はおみちを伝えなければならない。話さなければならない、伝えなければならないと思います。

私が会長にならせていただいて、一年半になりますが、教会がすべて順風満帆に行っているのかといえば、そうではありません。多くの節を頂いているのも事実です。特に前会長の身上は私にとっても、是非とも御守護頂きたいと願う事柄であります。是非とも次にここでお話しさせていただくときは、このように御守護いただきました、とお話できるようにならせていただきたいと思っております。そのためにも日々を後悔の無いように歩ませていただきたいと思います。

本年は教祖百二十年祭の年、おぢばをいつも賑やかにと日頃にも増して一層のおぢばがえりを進めておられます。私どもはこの一年、にをいがけ、おたすけ、そして、おぢばがえりへのお誘いに一年が過ぎてから後悔しないように、日々を歩ませていただきたいと思います。

ご静聴ありがとうございました。

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