私事になりますが、昨年12月7日、父が82歳で出直しました。
  今更ですが、私は、父には大変、恩があるのであります。子供が親に恩があるというのは当たり前の事ですが、私の場合、教会長として、そして、清水家の一人として大きな恩があります。
  京都市水道局に勤めていた私の父は、52年前、母と結婚して、私が3歳の時に、京都の西京区、桂に一軒家を購入して移り住みました。
  そこに、平安西分教会に在籍しておりました母方の祖父母が設立したものの、戦争の影響で維持できず、長らく信者宅に預けていた布教所の神様を、家の2階にお祭りして布教所の復興を果たすことができたのであります。そして私が小学校2年生の時、その家を増築して神殿を造り、母方の祖母、清水み津重を会長として桂平泉分教会を設立し、その後、母の二代会長就任、教会の移転建築を経て、11年前に私が会長にならせて頂きました。その間、父は常に陰の力となって、私どもの教会を信者さんと共に支え続けてくれたのであります。
  そして、それにも増して大きな恩は、途中から清水家に入籍してくれたという事であります。
  私は清水信孝といいますが、生まれたときは、父親の性、光成信孝という名前でした。それが私が五歳の時、家族全員で清水家に入籍することとなり、名前が変わったのであります。
  しかし、それからひとつ変化した事がありました。それは、それまでたびたび父の実家を訪れていたのに、それからピタリと行かなくなった。父方の祖父や祖母に会うことがなくなったということであります。
  その状態は私が中学一年、父方の祖父の葬儀の日まで続いたと記憶しています。
  布教所の復興を果たし、信者さんも増え始め、教会設立の機運の高まる中、父は父なりに将来の事を考えて、それが最善の道だと決断してくれたのだと思います。母の求めに素直に応じて、父は名前を変えてくれたのだと聞きました。母は女2人兄弟、父は男五人女二人の3番目ですから、養子になったとしても支障ないと思うのですが、それを、反対されると分かっていたためか、実家の承諾を得ずに実行してしまったせいで、それから大きなすれ違いを生むことになるのであります。
  最近、父の持ち物を調べてますと、昔の日記帳と一枚のはがきが出てきました。はがきは、昭和47年、教会設立の年、父の親族からのもので、そこにはこんな事が書かれてありました。
「そちらは何もかも思い通りになり結構ですが、その陰で『せっかく、苦労して育てた上裏切られた育ての親の気持ち』を、どんなにお宅が幸せなときでもわすれないでほしい。私たちの子供もすくすくと育っておりますが、決して親の期待を裏切るような子には育てないつもりです」と、書かれてあった。
  父は元来、親孝行者で、中学の頃から働いて家計を助けていたような人ですから、その時は辛かったと思います。
また、その頃の父の日記を読んでいてこんな一文をみつけました。
それは小さな字で、読みとくのが難しいくらいの走り書きで書かれてありました。
「私は兄弟からすれば、一番の親不孝者であろう。しかし、私はこの世に生まれてきて何かの意義を持ちたい。私の願いでかたまるより、苦しんでいる所を、こわれている所を助けたい。直したい。長い目で見て将来を、人を助けて我が身たすかるから。将来がある平泉。又、子供にはすくすくと伸びてもらいたい。生みの母から見れば志しと違った事をして本当に悪い子供であろう。許してもらいたい。一番頼りにしている私、苦労をかけてきた私、母の恩は一生忘れないと決心した。」
  約7年間、実家から縁を切られたような状態だった父ですが、祖父の葬儀をきっかけにじょじょに祖母やおじおばとの心の行き違いも解消されて、また家族で行き来するようになりました。そして教会が宇治へ移転した時は、父の親戚揃って参拝して下さり、それから月次祭には、父が祖母と叔母を車で送り迎えして参拝してもらえるようになりました。それは祖母が出直す直前まで続くわけですが、長いすれ違いを経て父は、日記に書かれているような孝行息子に戻ることができたのであります。
私たち子供は何も知りませんでした。その間もいつも子煩悩でやさしい父でいてくれたのですが、今になって、そんな苦労を抱えながら教会を支えてきてくれたんだなと思うと、本当に有り難いと思います。
  信仰生活を歩む中で、人には言えない苦労を抱えている人は数多くおられると思います。日々心が揺らいで、喜べない一日を送っている人もいるかもしれません。しかし、私たちは今、信仰させてもらえているという喜びを胸に、親神様、教祖に向かって、まっすぐに、素直に、そして焦らずに歩む中に、必ずやその先に晴天の御守護を頂けるのだと思わせて頂きます。 私自身、これからも親神様教祖に。そして出直した父に喜んでもらえるような日々を歩ませて頂きたいと思います。