私の教会の信者さんで、毎朝、朝づとめに参拝して下さっている、84才になるご婦人がおられます。見た目も大変若くお元気で、自転車も自在に乗りこなし、重い荷物もひょいと持ち上げ、毎月の月次祭には、誰よりも早く来て、遅くまでひのきしんをしてくださいます。こどもおぢばがえりには、毎年必ず詰所ひのきしんに出て下さり、ひのきしんを通して、顔なじみになった教友との再会をいつも楽しみにされています。
  ある時、その方の宅神祭へ行ったとき、こんな話をして下さいました。
  「私が昔、知り合いのお葬式に行こうと家を出たところ、ふいによろめいて、部屋に戻るとそのまま気を失ってしまった。同じお葬式に出ていた、当時の会長さん夫婦が、私がお葬式に来ていないのはおかしいと、終わってすぐに、家に来てくれて、倒れている私を見つけ、すぐに救急車を呼んでおさづけを取り次いでくれた。症状は脳卒中で、医者からはもう少し発見が遅れていたら命がどうなっていたかわからなかったと言われた。私はその後三ヶ月入院して、退院するときに、『これからの人生は、お道の御用に真剣に通らせていただきます』と心定めしたんだ」というお話でした。その方は、元々は未信者で、ご主人と結婚されたことにより入信されたのですが、ご主人は早くに出直され、苦労して二人の娘を育て上げて、子供たちが独立してからは一人で暮らしておられました。
「それから30年あまり、私は病気知らずで、検査以外では一度も病院へ行ったことがないんだ」と言われ、今、健康であることが何よりもうれしいと、いつも「神様のおかげだ」「ありがたい」と口癖のように言っておられます。
  私はこの話を聞いて、この方が今こんなにもお元気なのは、退院の時に神様と結ばれたこの心定めのおかげなんだなと感じました。そして「私は一度決めたことはやり通すんだ」とおっしゃるように、今も、どんな雨でも風でも、こちらが心配するほど、休まずに参拝に来られるその姿勢。一度定めたことは、やりぬくまでやめないというその姿が神様にお受け取りいただかれているんだと思うのです。
「しあんして こころさだめてついてこい すえはたのもし みちがあるぞや」
「しんじつに 心さだめてねがうなら ぢゅうようじざいに いまのまあにも」
と、おふでさきにお示しいただく通りなのだと思います。
  もう13年前になるのですが、私たち夫婦が結婚するときに、嫁の父親から一枚の色紙を戴きました。それには、あるおさしづの言葉が書かれていました。
「つないだ日 むすんだ日を生涯の理に治めるなら十分」という明治28年4月4日のおさしづでした。このお言葉は本来、おさづけを頂いた時の心を一生持ち続けることが大切だ、という意味のものらしいのですけれども、父は我々に、結婚してすぐの今の気持ちを大切にして生涯持ち続けて欲しい、と願ってこれをくれたんだと思います。
  今では、子供2人も成長して、幸せに暮らさせて頂いています。本当にありがたいと思います。それでも、時には夫婦げんかするときもありますが、今でもこの色紙を見て反省することがあります。
  しかし、人は忘れてしまいます。嫌なことは忘れるからいいんですが、大切な事も忘れてしまう。先ほどのおさしづ「その時の気持ちを一生忘れずに持ち続ける事ができれば、それだけで十分だ」というお言葉。これは、たやすい事のように見えて、とても難しい事のようにも思います。しかし、この心こそ、神様に喜んでいただける、御守護を頂ける大切な心持ちだと思うのです。
  当然、これは結婚だけにあてはまる言葉ではありません。教会であれば、その教会ができた日、奉告祭の日のその当時の人の心。会長にあてはめたなら、お運びをして神様に認められた日、そして、奉告祭をつとめてみんなに祝って頂いた時の心、会社なら会社を設立した日、人なら、入学した日、入社した日、子供が生まれた日、その節目節目で感じた心を忘れずにずっと持ち続けられたなら、それで十分だという事なんだと思います。
  そして、何より、「私は今これをさせていただきます。」と神様と約束した心、心定め。
  この、約束を果たすべく、どうでもと必死につとめる心、その姿勢を見て、親神様は真実の御守護をくださるのだと思います。
  私も、一度決めたことはやりぬくんだ、という一途な心、その気概と姿勢を持って、心定め完遂に向けて日々を歩ませていただきたいと思います。