私は、昨年度、町内会の役員をつとめさせていただいたのでありますが、3月の末、任期が終わっての親睦会の席で、ある人が声を掛けて下さいました。その方は、同じ町内に住む大きな電気店の社長さんでした。この方は、私の家が天理教の教会であることを知ってられて声を掛けて下さったのでした。
  「私の会社の社員の中に、天理教の人がいる。その人はいつも言葉遣いが丁寧で、 誰が見ていなくても、靴が乱れているときちんと並べ直す、社員はもとよりお客さん、お得意さん方にとても評判がよくて、いつも感心しているんです」という事でした。
  私はこの話を聞いて、とても嬉しくなり、まるで自分がほめられているように喜ばせて頂きました。それと同時に、この社員の方は日々の仕事を通して、立派ににをいがけされているな、と思い、私は、その方の顔も名前も知らないけれど、自分自身が助けられたような思いがしました。それから、そのあと少し天理教についての話をさせて頂くことができました。
  「にをいがけ」とは、このお道を未だ知らない人々に教え広めることであります。しかし、伝えようとするものがいくら素晴らしく価値あるものでも、伝える人が嫌なにおいを醸していたなら、人は近づいてくれないし、いくら良さそうなにおいでも、香水のような人工のものではよくないでしょう。蝶や蜂は、作り物でなく、本物の花の本当のにおいに集まってくるのだと思います。
二代真柱様は、ある方に「天理教とはどういう教えですかと聞かれたら、私を見て下さいと言えるようになれ」とおっしゃったといいます。なるほど、そのように言えるという事は、その人の言葉、行動、そして心が、親神様、教祖の思召にかなうという事でしょう。しかし、実際の所、なかなかその境地に至るのは難してことだと思います。自分自身を振り返っても、そのように言えるにはほど遠いと感じます。しかし、たとえ、すっきりと人が違ったように変わる事ができなくても、昨日よりも今日、今日よりも明日。一歩一歩、一段一段成長する過程をも親神様は楽しんで下さるのだと思います。昨日できなかった事が今日できるようになった。今日できないことでも明日できるようになる努力をすることであります。それがまた、同じ道を信じる仲間を喜ばせ助けることにもつながるのだと思います。
  毎月行かせていただくある講社祭に、一人の若い奥さんが参拝して下さいます。義理のお父さんがその神様を守ってくださっているのですが、小さな子供もおられるのに毎月毎月参拝してくださって有り難いなと思っておりました。ある時、その奥さんが子供の頃の話をしてくださいました。実は私が育った滋賀県の実家の近くに天理教の教会があって、小さい頃、妹と二人でよく行ってたんです。そこでは、お兄さんやお姉さんがいつもゲームをして遊んでくれて、お菓子を頂くのをいつも楽しみにしてました、いう事でした。
  また、私の妹は滋賀県で恋愛結婚して守山市に住んでおりますが、その相手のお母さんの実家の近くにも天理教の教会があり、幼い頃、いつも遊ばせてもらっていて、教会で勉強を教えてもらった事もあると言われた事がありました。妹が結婚してすぐに親子で別席を運んでくださり、度々おぢばがえりもしてくださるので喜びながらも不思議に思っていたのですが、ああ、そういう理由があったのかと合点がいったのでした。
  お二人とも、その教会との縁は切れてしまいましたが、成長して再び、このお道と結ばれた時には、しっかりと幼い頃の経験が残っていて、再び信仰につながる姿を見せていただいた。私は、その当時、この二人を教会に繋ぎ、仕込んで下さったそれぞれの教会の先生方に深く感謝するとともに。「私は助けていただいている」と感じたのでありました。 
  我々信仰者は、多くの仲間や先輩先生方のおかげを頂いて日々信仰させていだいているのだと思います。それらは目に見えるものでも感じることができますが、目に見えないそれぞれの心にも感じることができるのであります。
  日々の活動の中で、無駄な事はないと思います。その一歩、そのひと言が、将来どのような事につながるのかはわからないのであります。そして、我々はただ、そのおかげを受けるだけでなく、多くの方に与えることのできるよふぼくに成人するように、日々をしっかりと歩ませて頂きたいと思います。