先日ある教会に参拝させていただいいた時の事です。おつとめが始まり上半下りが終わりました。ある方が地方を終えておりてこられ、椅子に座ってられたのですが、顔色があまり良くありません。それを見た教会の奥さんが、別の部屋で休むよう促されました。その方は最初は拒んでおられたのですが、よほど体調が思わしくないのか歩き出されました。するとよろよろと足下がおぼつかない様子ですので、周りの者が支えに行くと、とたんに腰から後ろ向きに倒れられました。顔を見ると土色の肌、意識も混濁している様子です。あわてておつとめ着のハカマのひもをゆるめて、すぐに会長さんがおさづけを取り次がれますと、その方はにわかに口を空けて、声を出して大きなあくびのような仕草をされました。すると土色だった肌がみるみると白くなり、ほんのりと赤みを帯びてきて、目を開けて、いつもの様子で、大丈夫、大丈夫と笑って答え、立ち上がろうとされました。念のため、病院にも行かれ検査も受けられましたが、まったくどこも異常無く、直会が終わった頃、教会に戻ってこられました。倒れて目を覚まされるまで、わずか五分間にも満たない間の出来事でしたが、私は、その不思議な御守護の姿に目を見張りました。私を含め、周りの者は皆、頭の血管がつまったか、心臓がとまったかと、心配したのですが、その方の日々の誠真実の通り方を親神様教祖が受け取ってくださったのか、鮮やかに御守護を頂かれた姿でした。
  話は変わりますが、私の本部勤務時代の上司で、長崎の大教会の会長をされている先生がおられます。先生は大病を患われ、今、闘病生活を送っておられるのですがその様子を毎日克明に「長崎ぶらぶら日記」という自身のブログに記録しておられます。私は、そのブログを拝見する度、闘病生活の大変さとともに、嘘偽りない報恩感謝の言葉に感動します。「これ以上苦しい思いはしたくないなあ、と心が呻く。けれど、今、そんなことで心暗く生きたのでは、与えられた「今日」、貴重な「今日」がもったいない。精一杯、「今」をよろこんで通りたいものだ。」「今朝から重湯。みそ汁、牛乳も。食べられることの喜びに、ただ涙」「一人で歩いてかえって来れる、好きなものが食べられる、これって物凄い贅沢な幸せなんだよなあ!!!」という書き込みを読んで、私は、日々与えられた命を、そして時間をいかに粗末に贅沢に使っているのかを反省しました。
  そんな時、ある一枚のハガキが私を大変驚かせました。私の大学時代の同級生が出直した、という彼のお母さんからのはがきでした。毎年やりとりしている年賀状が来ないので不思議に思っていたのですが、彼は昨年の12月22日の夜に、友達と酒を飲んで、帰りに誤って外で寝込んでしまい、凍死したという事でした。独身で写真が好きで、同窓会で会ってもいつも明るく冗談を言って周りを明るくしてくれるような彼でした。本当に残念な悔しい思いでいっぱいになりました。
  このひと月、私の周りには、いのちを考えさせられる出来事が数多くおこりました。
  お言葉に「蝶や花やというたとて息一筋が蝶や花である」とお教えいただきます。私たちのこの身体、日々当たり前のように使っていますが、わずか五分、息ができないだけで命は途切れてしまいます。親神様教祖の御守護があってこその命であります。
生きているだけで有り難い、生かされているだけで御守護を身体いっぱいに受けている姿であります。もっともっと感謝して日々を歩ませていただきたいと思います。