先日、ある先生の講話を聞いて印象に残る言葉がありました。
「親がどんなに徳のある人でも、その子供にそのまま徳を譲ることはできません」
「徳とは、その人が教祖のひながたを通って少しづつ積むものです」
  というものでした。
  ひながたを通らなければ徳をつむことはできない。徳をつむには、ひながたを通るより他に道はないという事でしょう。
真柱様は今年の学生会総会でのお言葉の中で
「私たちは教祖と違って、自分の思い通りに道を歩めるわけではありません。通りにくい道は通りたくないから通りやすい道を通りたいと思っても、自分でそれを選べるわけではありません。通りたくなくても通らねばならない事が多いように思うのでありますが、教祖のひながたを学べば、どんなに通りにくい道があっても通り抜く事ができる事をお教え頂く事ができるのであります」とお述べくださいました。
  おやさまのひながたの道を通るとは、我々が徳を積む最も重要な方法であるとともに私たちが事情や身上などの困難に突き当たっても、それを乗り越えることのできる大切な方法をお教え頂くものであるという事です。
  では、徳とは何でしょうか、徳のある人にはどんな不幸もやってこないのでしょうか、一生何もなく楽に暮らせる人が徳のある人なのでしょうか。
  私は、それは違うと思います。徳のある人とは、親神様がお望みくださる「陽気ぐらし」の世界をつくるよふぼくとして、親神様教祖に愛され見込まれた人だと思うのです。
  先日おぢばで行われた教会長おやさと研修会で、表統領先生はその挨拶の中で、陽気ぐらしについて触れられ、とても興味深い話をしてくださいました。それは「陽気ぐらしと極楽はどこがちがうのか」というものでした。極楽とは、仏教用語で「全く苦患(くげん)のない安楽な世界」を意味します。苦患(くげん)とは、苦しみ患うと書きます。しかし、これは我々の目的とする「陽気ぐらし」とは随分と違うとおっしゃるのです。陽気ぐらしで最も大切な事はそれぞれの心がすみきるという事、そして我々がたすけあって生きるということであります。これが親神様が一番お望みになることだというのです。しかし、極楽の世界では、我々は助け合う必要がなくなってしまいます。これでは、親神様にとってはまったく面白くない世界になってしまいます。陽気ぐらしとは、苦しみや患いがあっても、助け合って実現できるもの、苦しみや患いがあっても味わえる、むしろ助け合うことによって、深い陽気ぐらしを味わえるのではないか、ということでした。
  私は、この言葉を聞いて、深く納得をしたのでありました。
  例えば、なぜ、あんないい人がこんな不幸に見舞われるのだ、と思うことがあります。しかし、親神様は、その中で助け合って、乗り越えることができることを信じ、期待されて、困難をお与え下さっているのではないかという事です。むしろ乗り越えることができるほど、徳のある人だからこそ、あえて苦難を与えられるという事もあるかもしれません。思えば先人先生方の伝記を読ませていただいても、その人生の中で思わぬ大きな不幸や困難に遭遇される史実に出会うことがありますが、それは、その方がまさに親神様からより深く愛され教祖の身近におられるという証なのかもしれません。生涯に積んだ徳は子供には譲れませんが、自分自身の来生、来来生へと引き継ぐ事はできるのです。
  今、好むと好まざるとに関わらず、我々日本国民全体に助け合いが求められています。皆が心して助け合わなければ乗り越えられないほどの大きな難渋の中にいて、我々お道の者は、その大いなる親神様のおぼしめしを胸にして、先陣を切ってその大きな助け合いの道をまっしぐらに進ませて頂きたいと思います。