私の教会のある婦人さんが、旦那さんの事で悩んでおられました。旦那さんは73歳。以前より、腰の具合が悪く、ほぼ毎日、ベットに座って一日を過ごされていたのですが、ある時、両足のふくらはぎ全体にひどいできものができて、その痛みで歩くことができなくなりました。病院に行って診てもらったのですが、医者の診断では、毎日、お風呂に入って清潔にし、薬を毎日塗って、通院してください、という事です。しかし、そのおじさんは頑固な人で、その上お風呂嫌いときています。奥さんは何とかお風呂に入れて、薬を塗ろうとするのですが、なんやかんやと理由を付けて、思い通りにしてくれません。医者へも連れて行こうとするのですが、治療が痛い、医者が気にくわないなどと言って行こうとしませんでした。しまいには、「自分はいつ死んでもいいんや」「嫌なら出て行ってくれ」とまで言って取り合わなくなりました。それから、夫婦げんかが絶えなくなり、奥さんは口を開けば旦那さんの愚痴を言うようになりました。そんな状態が半年ほど続き、私も何度かお宅へおじゃまするのですが、なかなかに分かっていただけませんでした。
  しかし、ある日、教会の月次祭に参拝されたその婦人さんがそれまでとは打って変わって晴れ晴れとした表情をされています。「何かいいことがありましたか」と聞きますと、その方は「やっぱり会長さん、自分が変われば相手も変わってくれるんですね」と言って、「今とってもうれしいんです」と答えてくれました。それまでとのあまりの違いように尋ねると、こんな事があったんだと教えてくれました。
  「半月ほど前、なんとか説得して旦那さんを車いすに乗せて病院へ向かっていました。その日も朝から口げんか、お互い愚痴を言いながら歩いていると、同じ年代の車いすの夫婦とすれ違いました。ただ、自分たちと違うのは、車いすに乗っているのは奥さんで押しているのが旦那さん。その奥さんは脳梗塞の後遺症で手足の自由がきかず、数年前から旦那さんが介護されているということでした。その時、その車いすの奥さんが声を掛けてくれました。「奥さんも大変ですね。車いすを押すのは重いでしょう。でもあなたはまだ幸せですよ、私のように主人に何もかもしてもらうのは申し訳ない。お世話ができる方がいいですよ。」というものでした。その言葉を聞いて気づきました。私は旦那に、これだけ世話をしているのになぜ思い通りにしてくれないのかと不足に思っていたけれど、私はまだ幸せなんだと。考えてみれば、相手は文句も言うけれど、痛いし苦しいし辛いんだなと思うようになって、一度我慢して、優しい言葉をかけてみたんです。すると相手も優しい言葉で返してくれた。それから、優しい言葉、思いやりの言葉をかけるようになったら、少しずつ言うことを聞いてくれるようになった。じょじょに病状も回復に向かい、今では、ほとんど外出しなかった旦那さんが、自分からスーパーに連れて行ってくれと言うようになって、それから度々二人で外出するようになったんだ」という事でした。
  私はこの言葉を聞いた時に大変喜ばせていただくと共に、親神様がこの夫婦が治まるためにこの出会いを準備して下さったんだと感謝しました。また、そのひと言の言葉で「気づいた」ということは、その婦人さんの信仰のおかげでもあるのではないかと思いました。それは「人は鏡、良い言葉も悪い言葉もかけた言葉そのものが自分に返ってくる、という事」また「たすけられる人よりたすける人の方が幸せなんだという事」です。
  私の好きな詩に、宮沢賢治の「永訣の朝」という作品があります。これは、賢治の一番の理解者だった妹トシ子が25歳で出直した際の様子を描いた作品ですが、その中で、臨終の言葉のひとつとして紹介されている一文があります。
「うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのことばかりで/くるしまなあよにうまれでくる」
  これは「今度生まれてきたら、こんなに自分の事ばかりで苦しまない人間に生まれてくる」という意味ですが、「病弱だったトシ子が、自分のことばかりで苦しんで終わってしまう自分の一生を省みて、今度生まれてきた時は、自分のことは置いても、もっと周りの人のために努力できるような生き方をしたい」と願った言葉だと受け取れます。
  私たちは「おつとめ」や「おたすけ」「ひのきしん」を通して、ひとのために祈り、ひとのために尽くす方法を知っています。しかし、時には、周りの人の無理解や無知、誤解によって、その行いが正当に評価されなかったり、時には批判されてしまうという事もあるかも知れません。しかし、そんな時こそ我々はしっかりと信念を持って行動することが大切なのだと思います。世間に、「情けは人の為ならず」という言葉があります。これは「人にいいことをしているとめぐりめぐって自分もいいことをしてもらえる」という意味の言葉です。お道には「人たすけたらわがみたすかる」というお言葉があります。これは、人をたすけることが自分がたすかることなのだという意味ですが、世間の言葉と違うのは、たすけてくださるのは、まわりの人ではなく親神様なのです。また、「人をたすける行いというのは、それ自体が自分がたすかりつつある姿なんだ」とも言われます。嬉しいとき、楽しいとき、悲しいとき、辛いとき、どんな時も、親神様は見ていて下さいます。 今、生きていること、身体が動くと言うこと、人のために行動し、悩めるということを喜んで日々を歩ませていだきたいと思います。 ありがとうございました。