先日、母親と共にあるお宅の講社祭へ行った時のことです。いつもは私がお話をさせていただくのですが、その時は、母がおつとめの後、話をしてくれました。
  その家に若いお母さんがおられた事からか、出産の話になりました。
  滋賀県守山市に嫁いでおります、私の妹は3年前、男の子を出産したのですが、その際、妊娠中毒症から緊急入院し、夜中に湖東にあります野洲病院から大津の日赤病院へ救急車で搬送されて出産しました。妊娠八ヶ月1800グラムの早産でありました。その時、私の母は心を病んでおりましたので、すぐに病院へ駆けつけることができず、あの時は、娘に何もしてやれなくて申し訳なかった。その時、娘はどんなに寂しい思いをしただろうと言った後、その妹が生まれた時の話をしてくれました。
  私の妹は、35年前、河原町姉小路付近にあった産院で産まれたのですが、男が二人つづいてしばらくしてからの出産で、当時としては高齢であった為に、中々生まれてくれず、難産だったそうです。いきんでも、いきんでも生まれてこないので、母親の母、すなわち私たちの祖母が、その様子を見かねて、母親が言うには「ごめんやっしゃ ごめんやっしゃ」と言いながら突然分娩室に入ってきて、「すんませんけど、天理教のおさづけをさせてもらえませんやろか」と産婆さんに言うなり、了解を得て、その場でおさづけを取り次いでくれた、というのです。するとにわかに、力が湧いて、すぐに、女の子が生まれた。産婆さんも、「えらいもんどすな」と感心してくれた、という話をしてくれました。
  母親は、同じ娘の出産に対して、私と母とではずいぶんと違っていた。申し訳なかったというさんげと共に、おさづけの尊さ、素晴らしさ。そして、昔の方のおさづけに対する積極的な姿勢を話してくれたのですが、私はその話を聞いて、私自身、気づいたことがありました。
  今から、7年前、私たち夫婦に初めての子供が生まれたときのことです。その病院は立ち会い出産を勧めていることから、私は出産時に、分娩室の枕元に立っておりました。私は出産などすぐにすむものだと思っていたのですが、妻には何度も陣痛の波は来るのですが、出産までには至りません。一つの部屋に分娩台が二台あり、分厚いカーテンで仕切られた隣では、他の妊婦さんが入って来ては出産し、産声が聞こえ、部屋に戻って行かれます。何人かが無事に出産して部屋に戻られる気配を感じながらも、私は為す術もなく、その場にいるだけでした。多くの不都合が重なり、結局、妻は隣の手術室へ連れて行かれ、帝王切開で娘を生んだのでした。
  それでも、元気な子供を授かって喜んでいたのですが。母の話を聞いて、今更にしてあの時の私はあれで良かったのだろうか、私は妻が苦しんでいる時におさづけを取り次いでやれなかった事を悔やんだのでした。当然、私がそこにいなかったなら、そんな事は思わなかったかもしれません。しかし、私は、その場所にいたのです。親神様はあの時私に、それを望んでおられたのではないか、と思ったのでした。
  おさづけの取り次ぎに、人と所と時間の例外はないと思います。言いかえれば、今といったら今、ここといったらここ、この人といったらこの人なのでしょう。
  私たちは多くの場面で親神様より成人の旬をお与えいただきます。それは、前々から分かっている時もあるでしょう、突然現れることもあるかもしれません。また、その時はそれに気づかず、後になってわかることもあるでしょう。しかし、いずれにしても、私たちは、その場から逃げていてはいけないのだと思います。又、気づいていても気づかないふりをすることもいけないのではないでしょうか。気づくということは、誰かがそれを望んでおられるということなのだと思います。親神様が成人の旬をお与えて下さっている姿だと思うのです。
  これからも今までの経験を踏まえ、多くの反省を生かして積極的ににをいがけ、おたすけ、そして、おさづけの取り次ぎに励ませていただきたいと思います