今から12年前、未曾有の大惨事が日本を襲いました。阪神淡路大震災。その時の地震の揺れを実感として覚えている方も多くおられると思いますが、実は私の妻の実家の教会は神戸市灘区にあり。あの大震災で全壊したのでした。幸いにも家族は皆怪我一つ無く御守護頂いたのですが、近くにあった同じ系統の教会では、年老いた会長さんががれきの中から遺体で発見されました。すぐに父と、兄が文字通り戸板に乗せて、遺体の収容所となっていた公民館まで運んだそうですが、そこには、累々と遺体が並べられており、全く、自分の目を疑うような悲惨な様子だったといいます。
  それからしばらくして、おぢばで、この震災で教会が全壊、または半壊した教会の会長夫妻を集めて、激励する場が設けられたそうですが、その時、当時の真柱様がお言葉の中で、「この度の大節は、何も被害を受けた者だけに与えられた節だとは思っていない。これは、私をはじめ、お道につながるすべての者にお与えいただいた節である」という内容のお話をされたと言います。そのお言葉を聞いて、震災以来、神様は何故私たちにこのような節を与えられたのか、私たちの行いの何が悪かったのだろうかと、自分たちを責めてきた被害に遭われた会長さんや奥さん方がみな心から慰められ、そして救われたと聞きました。その後、第二食堂で、食事の場が設けられたのですが、上座に座っておられた、真柱様奥様のお姿がしばらくして見えなくなったので、父は、お下がりになったのかと思ったそうですが、ふと見てみると、お二人が下座の方から一人ひとりに声を掛けて、激励しておられたといいます。父も「これから苦労が多いと思うけれどもがんばれ」と親しく声を掛けていただいたと聞きました。それから12年。言うに言われぬ苦労の道中を通る中で、いつも心の支えになったのはこの前真柱様のお言葉であると、年老いた父は、涙を流して語ってくれました。
  「親身のおたすけ」といいます。「親身のおたすけ」とは、ただ何か手助けするとか、なにかひと言助言するということだけではなく、その人の身上や事情を自分の事として受けとめることではないかと思うのです。自分の事として受けとめて、真剣に解決を求める中に、その行いや言葉の一つ一つがその人の心の支えとなり、助かりにつながるのではないでしょうか。
  今の時代を支配しつつある無関心は何も世間だけの問題では無いと思います。それは、このお道の中にも広がりつつある問題です。ややもすると、世界で起こる様々な紛争や事件、事故を遠い世界を眺めるように、自分には関わりのないことだと傍観してはいないでしょうか。また、時に、本来ならば温かく庇護すべき同じお道の人たちの事情や身上に関しても、あれはあの人の問題だ、あれはあの教会の問題だ、と冷たい心で接してはいないでしょうか。
  私たちは今一度、真柱様の我が事だ、と思い悩まれた親心、そして教祖のどんな人々にも温かい心で接された御心を見習い、今の結構、自分の結構さに鈍感になるのではなく、その結構さの恩返しの道としてのおたすけを、喜び心をもって尽くさせていただきたいと思います。