私事になりますが、私は昨年九月二十六日に教会長の理を戴かせていただきました。そのときのお運びはとても多く、二十五才から八十四才までの七十三人の方が同じくして教会長になられました。教会長になられる事情も皆様々で、私は、両親が健在の内に会長の理を戴けることはとても有り難いことだと感謝いたしておりました。
  お運びも無事終わり、その日の夜、自教会へ戻り、妻と子供が風呂へ入っているのを待っていたときの事です。私はトイレに行きたくなり小用を済ませたのですが、今までに感じたことのない残尿感がありました。そして5分くらいたつとまた小用へ行きたくなるので、トイレへ行くのですが、少ししか出ません。また行きたくなる、少ししか出ない。このようなことを三十分たらずの間に5、6回繰り返していました。どうしたのだろうと不信に思いながらも、家族が風呂から上がったので皆で食事をとっていたのですが、そうするとにわかに左の脇腹が痛くなってきました。家族は楽しそうに食事をしているもので、心配させてはいけないとひとり隣の部屋へ行き、ザブトンを敷いて横になっていますと、ますます痛みが増してきました。しまいには、まるで、えんぴつの先で力いっぱい横腹を突き刺されているような強い痛みになり、私は言葉も出せずに、その場でエビのように丸まって横になってガマンしていました。
  それをみつけた妻が心配して近寄ってきて、痛いところをさすってくれたのですが、痛みは一向に緩みません。痛みがピークを迎え、この痛みがあと十分続くようであれば、救急車を呼んでもらおうと思ったとき、妻が御供さんを私の口に運んでくれ、それからおさづけを取り付いてくれました。「あしきはらいたすけたまえてんりおうのみこと」。そうすると途中から痛みが和らぎ、不思議なことにおさづけの終わる頃には全く何の痛みもなくなっていました。私も妻も、その不思議に信じられない気持ちでした。わずか、1時間足らずの出来事でしたが、私は、教会長になったその日に、「親神様の自由の御守護」を実感させていただくことができました。親神様は確かに我々の傍らにおられ、理屈っぽくて疑い深い私に、「私は確かにここにいるやろ」といって横腹をつねっていただいた、そんな気がしました。それから三日後、、小用をするときに少し違和感があったので便器の底を見てみると、直径4ミリくらいの黒い石が沈んでいました。原因も分かって納得させていただき、それからは何の違和感も痛みもなく御守護いただいております。 
  その日より約2週間前、教会長任命講習の終講式で、ある先生が、「あなたがたは、これから蝶になるのです、教会長という蝶になるのです」とおっしゃいました。私は、「いつも人から見られる立場になるので、日々、心して通らなければいけませんよ」という意味でおっしゃっているんだと思っていましたが、この26日の夜の痛みが去ったとき、この言葉と同時に頭に思い浮かんだお言葉は「蝶や花というも息一筋が蝶や花である」というおさしづのお言葉でした。
  私が教会長として日々暮らさせていただけるのも、親神様が私に息をさせてくださっているからこそで、この御守護がなければ、私はこの場にいることすらできないのです。この腹の痛みは、親神様が私に、くれぐれも教会長という立場に溺れ、おごり高ぶることのないように、強く戒められたとも受け取らせていただきました。
  教会長としてまだまだ半人前の私ですが、これからも親神様教祖の御守護を信じ疑うことなく、一心に大役を務めさせていただきたいと思います。また、間近に迫った教祖百二十年祭には、少しでも存命の教祖に喜んでいただけるように日々を真剣に歩ませていただきたいと思います。
ありがとうございました。