真柱様は諭達第二号の中で
「身上に苦しみ、事情に悩む人のおたすけに真実を尽くすことこそ、よふぼくの何よりのつとめである。」と、おたすけの重要さをお説き下されています。
 私事になりますが、今年の五月から七月にかけて、教会長である母は、修養科の教養係としておぢばに伏せ込ませていただきました。その間、留守を預かる我々は、教務は私、家事は私の妻がその責任を任されておりました。それから一ヶ月がたった時、会長から電話で「入院しておられる信者さんの様態が急変したので、すぐに行ってくれ」と連絡が入りました。病院へ駆けつけると、信者さんの様態は優れず、側に旦那さんが心配そうに付き添っておられました。その日から、おぢばに伏せ込んでいる会長の代りに、行ける限りおたすけに通わせて頂くようになりました。そして何度目かに行ったとき、たまたま私の妻と、生後半年の娘を連れていったところ、その方が不思議と元気になってとても喜んでくだされたので、それからはなるべく三人で寄せて頂くことにしました。
 もう5.6年前になるでしょうか、大教会青年を終え、上級平安西分教会の青年もひかせていただいて自教会に帰った頃のことです。この度と同じように、大教会の奉仕に来させていただいていました。昼食を済ませ、神殿掃除の前のお清めにお風呂へ入らせて頂いたとき、ある役員先生が先に入っておられ、私に声を掛けて頂きました。「今どうしているんだ」という問いに「自教会青年をしています」と答えると、先生は「教会青年はどうだ」と問いかけられました。その問に対してあいまいな答しか出せない私に先生は「教会生活を充実して過ごそうと思えば、にをいがけ、おたすけするしかないぞ」と言われました。
 そのときの先生の言葉を、私はあらためて感じていました。親子三人で病院へ向かう時、そしておさづけをさせていただいて病院を後にするとき、夕づとめ後に家族でお願いづとめをつとめるとき、御守護を願って12下りのておどりまなびをつとめているとき、私は、言いようのない充実感を感じている事に気づきました。そして、私どもがこのように健康に幸せにおいていただいている事に大きな感謝の気持ちを感じていました。
 おたすけに通わせて頂くようになってちょうどひと月、惜しくもその方は出直されました。末期の肺ガンということでした。遷霊祭、告別式、そして自宅での葬後祭が慌ただしく過ぎ、帰途につこうと神棚の前に座って親神様に手を合わせていたとき、旦那さんが横に座られて、私どもに感謝の言葉をかけてくださいました。私どもも至らなさをお詫びさせていただきました。 奥様の身上をきっかけにして家庭に神様をお祭りされ、三人の息子さんも別席を運ばれました。奥様が出直された後も親神様に対する真摯な姿は変わりなく、今も家族揃って熱心に信仰を続けてられます。
 この姿を拝見するに付け、これはおぢばにおりながらも時間を見つけてはおたすけに通っていたという会長の丹精と、ご家族の素直な信仰心のあらわれだと思わせて頂きますとともに、私どもにとっても本当に救われる思いがいたしました。そして、あらためて親神様に感謝いたしました。
 留守を預からせていただいた三ヶ月、私どもは親神様の深い思いを悟らせて頂く機会をお与え頂いたように思います。また、おたすけの大切さをしみじみと感じさせていただきました。今後ともこの思いをむねに、教会生活を続けさせて頂きたいと思います。ありがとうごさいました。