「教祖は、人類救済の道を『つとめ』と『さづけ』をもってお教え下されたと言えましょう。『つとめ』も『さづけ』も、『ぢばの理』を頂く事で初めて御守護をいただける。そして、これらはまた、教会活動の二本の柱なのです。そして、この柱をしっかりと立てることが、教会内容の充実する元なのです。」
 と真柱様は春季大祭神殿講話で述べられ、「おつとめ」の完修のためには今、布教が最も大切であることをお説き下さいました。
 大教会のある先生が、今のお道に足りないのは「感動」である。とおっしゃっていましたが、私は「おつとめ」についてとても「感動」したことがありました。 私は、昨年八月に本部で行われた「学生生徒修養会高校の部」でひのきしんさせていただいたのですが、その中に「十二下り手おどり」というプログラムがありました。それは、五日目の夜、黒門前で三回生全員による十二下りておどりを勤めさせてもらおうというものでした。それまでの練習風景も見させていただいていましたが、学修以外でおてふりをしたことが無いという者が多く、短時間では覚えようとしても覚えられないジレンマからか、なんとか真剣に学んでもらいたいというカウンセラーや講師の先生方の努力にも、多くの者は「こんなことはやりたくない」と不足をもらしていました。
 当日、夕勤め後、てをどりは始まりました。驚いたことにそこには、すべての参加者が回りの手を見ながらも真剣につとめる姿がありました。12下りが終わった後、みんなの側へ行ってみると、みんなの顔は感動で満ちあふれ、多くの者が涙を流し、中には友達同士で抱き合って感動しているものもいました。
 それを見たとき、私は「おぢばの理」を深く感じるとともに、てをどりを勤めて、おつとめをつとめて、私は彼らほど感動したことがあるだろうか、と自問自答しました。ややもすると、自教会で月次祭をつとめていても、惰性に流されて、ただ「つとめている」という状況の多い、自分に気づいたのです。
「感動」するためには「真剣」さが必要なのでしょう。そして「努力」が不可欠なのに違いありません。
真柱様は
「教会において『おつとめ』を完修しよう、思召にこたえられる『おつとめ』をつとめようとすれば、人々に寄り集まってもらえるよう、人々を育てなければならないのです。また、人々に寄ってもらおうと願うならば、布教をすることが道理です。その布教が容易になるように、教祖は願い出によって「おさづけの理」をお渡しになる。「さづけ」の取り次ぎによって、人々がたすかる御守護を頂戴できる。」とお述べ下さいました。
 私は、教会内容の充実のために、真剣におつとめをつとめるように、また、真剣につとめて頂けるように努力し、そして「おつとめ」に参加いただける人を一人でも多く御守護いただけるように努力させていただくことが、私にとっての感動であり、道を通る上での糧になるのだと思わせていただきます。
ありがとうございました。