「なるほどと思っただけでは不十分である。なるほどの理を実行して御守護を頂いてこそ、なるほど分かったと言えるのであって、これが私は、成ってくる理の思案であると申したいのであります。」
 と、真柱様は春季大祭の神殿講話で述べられ、実行することの大切さをお説き下さいました。
 この話を聞いたとき、自分自身のいたらなさを感じ、ある出来事を思い出したのであります。
 以前、教会の信者さんが軽い脳梗塞で入院したのですが、その後思わぬ糖尿病との合併症で言語が話せなくなり意識ももうろうとして、ほとんど寝たきりの状態になっておられました。私は車の運転手として会長とともに毎日のように通わせていただいていたのですが、ある日会長から、今日はお前がおさづけを取り次がせていただけと言われ病室に入ったのです。恥ずかしながら病院でおさづけを取り次がせて頂くのは初めてでした。家族の方々と雑談を交わしながら「さて、いつおさづけを取り次がせてもらおうか」と思案していたのです。相部屋なのでほかの患者さんも見ておられる、「この看護婦さんが出てからにしよう」とか「カーテンを引いた方がいいかな」などと色々思案しておりました。そうするとその信者さんが話せない口で何かモゴモゴと言おうとしている。何か言いたいのかなと側に近づいて聞き耳を立てるといきなり、その部屋中に響くような大きな声で「おさづけ」とおっしゃった。その声を聞いたとたん、頭をバットで殴られたような気がしてその信者さんに飛びつくようにおさづけを取り次がせて頂きました。
 我が子かわいい親心から何とか助けてやりたいと思われる親神様と一分一秒が痛くて苦しくて何とか「おさづけ」をもって御守護頂きたいと願う信者さんの間を取り持つ「ようぼく」である自分が、周りの状態や自分の感情などという雑念にとらわれて、親神様のあつい親心も信者さんの痛み、辛さも感じていなかった現実に自分は恥ずかしさで身の縮む思いだったのです。
 頭では全て分かっている気に成っていた自分であります。しかし、実行の伴わない私のそれまでの通り方は、たしかに「絵に描いた餅」でしかなかったのだと反省させていただきました。その後その信者さんは大きな御守護を頂かれ、教会活動に熱心に取り組んでいただいております。
 「私たちようぼくの使命は、おつとめをして親神様にお勇み頂き、おさづけを取り次いで身の内の悩みがあればそれを治めさせていただき、教祖から聞かせていただいた人間存在の理由を、知らない人に伝えさせていただくことであって、この三つは、自分の心次第にでけんことではないと思うのであります。」と真柱様は「ようぼくの使命」を分かりやすくにお述べくださいました。これからも一人のよふぼくとして親神様にお喜びいただけるように通らせていただきたいと思います。           ありがとうございました