教祖は、片時も離れず一人ひとりの傍らにおわして、それぞれが成人しやすいように言葉をかけてくださり、手を引いてお導き下さるのであります。
 
 教祖百十年祭での真柱様お言葉の、この一節を耳にしたとき、私はその親心の深さをあらためて思い、感謝したのであります。
 人間はたとえいくつになっても教祖の前では子供であります。教祖から見れば私たちはまるで聞き分けのない幼い子供なのでしょう、だからこそ教祖は何とか分からせようと様々な方法でお手引き下されるのであります。
 ある日、私がある場所でひのきしんをしている時のこと、その周りの砂利で1.2才の子供たちが遊んでおりました。そうするとその中の一人の子のお母さんがおもむろに一人の子を抱えひどくほっぺたを叩いて怒りだしたのです。その子は火がついたように泣きだし周りの子供たちも神妙な面もちでことの成り行きを見ておりました。私も「何も叩かなくてもよいのに、きつい母親やなあ、子供がかわいそうやで」と思っておりました。しかし、よくよく話を聞いていると、その子供が砂利を口に含もうとしたので怒っているということが分かったのです。
 もしもその子供がじゃりを食べていたらどうなっていたでしょう。その痛みは頬を叩かれた痛みの比ではないと思います。そして、叩かれたことによってその子供はしてはいけないことに気づいたに違いありません。
 親の心は目には見えないものです。傍観者である私はその真実を聞かなければ、その親を「ひどい親」と思い続けていたに違いありません。しかし、子供可愛いという真実の親心は確かにそこにあるのです。
 真柱様は
「親神様は、教祖は、子供である私どもに、何も好き好んで難儀なふしを与えようとは思われませんが、それを承知の上で難儀な荷物をお背負わせになるのは、ただ私たちの誤った心遣いを改めて、一日も早く陽気ぐらしを味わうようとの、子供かわいい一念のみなのであります。」とおっしゃいました。
 親の言うことに万に一つの間違いもないのであります。ぶたれた痛みはなんとか分かってほしいという教祖の願いの深さでもあります。
 私たちは、自らにおかけ下さる親心に感謝し、自らは、教祖ご存命の証拠とも言える、かぐらづとめの勤修とおさづけの取り次ぎを通していただく御守護をもって、陽気ぐらし世界実現のために勤めさせていただくことが大切であると悟らせていただきます。