教祖百十年祭が一月二十六日、盛況につとめられましたが、私はこの間、詰所駐車場係として、帰参される信者様方の受け入れとお出迎えのひのきしんに当たらせていただいておりました。二十五日の夜ともなると、詰所全体が騒然としており、各人それぞれの係の仕事に奔走しておりました。そんなとき、なにかの拍子に、私のしております眼鏡の柄の部分がポロリととれてしまったのです。何気ない、なんともないことのようですが、メガネがなくてはなにも見ることのできない私には大問題です。「今晩は徹夜して信者さんの受け入れに当たろう」と意気込んでいる同じ係の者に何と言おうと、かすかにぼやけて見える正門の提灯と事務所の明かりを見ながら茫然自失、思い悩んでおりました。そのとき不意に、ある青年さんならハンダゴテを持っているのではないかと思いひらめき、それを借り、応急処置をしてこのメガネの件は事なきを得たのですが、この時、日頃かけているこのメガネがいかに大切なものだったのか、壊れて初めて身にしみて思い知らされたのです。あって当たり前の物が、日頃なんの感謝もせず、気にもとめていない物が、自分にとってなくてはならない、無くてはなにもできない大切な物だったことに気づいたのです。
 私たちの日常の生活においても、この様なことを感じることが度々あります。その多くは、この身体に対して感じられます。日頃、何気なく使っているこの身体が、一旦、身上になれば「健康とは何て有り難いものなのか」を思い知らされます。
 物事はきっかけがなくてはなかなか気づけないものです。しかし、私たちお道を信仰するものは、すくなくとも失ってから感じるのではなく、その御教理によってこの身体の真理を、あらかじめ知り、心におさめ、そして感謝することが大切ではないでしょうか。
 私たちのこの身体は親神様からの「かしもの」、私たちからみれば「かりもの」、こころだけが「自分の物」だとお教えいただきます。神様からお借りしているこの身体ですが、日頃私たちはあまりに無神経に、当たり前に使っているのではないでしょうか。頭の先からつま先まで満ち満ちている親神様の御守護を本当に感謝をもって使わせていただいているでしょうか。
 真柱様は、お言葉の中で
 「目で物を見るのは御守護。耳で理を聞き分けるのは御守護。鼻で物をかいだり口でかんだり手で働いたり、足で運んだり、心の思うように、この五体を健全につかわせてもらうことができるということは、親神様の御守護、しかし、はああ、ああ、親神様の御守護やなと思って毎日通っているかどうかということをかんがえてごらんなさい。時々でいいですから、ひとつ、御守護を御守護と改めて感じる努力はしていただきたい。そうすると、みなさんの心はそれだけ勇んでくると思う。信仰しているという自覚になってくると思う。それを忘れてしまったら、もう世間の人と何ら変わりないですよ。」とお述べになりました。
 この身体がいかに大切なもので、親神様の御守護がいかに深いものなのかを心におさめ、感謝するには、それを失ってからではおそいのです。信仰者である私たちは、おかしいただくこの身体をつねに感謝をもって、親神様のお喜びいただく目的と方法をもって使わせていただきたいとおもいます。