狗奴の名付け親

千尋がいつものように執務を抜け出して散歩をしていると、狗奴達が集まって珍しく騒いでいた。
「皆さん、随分と嬉しそうですけど、何があったんですか?」
狗奴達は、酒が入ると陽気になる者が多いが、それでもやたらと騒いだりはしない。そんな彼らが素面でわいわいと歓声を上げているのを見聞きして、千尋は自分の目と耳を疑った。何しろ、忍人までもがそれを注意するどころか、少し引いたところから暖かく見守っているのだから尚更だ。その上、一応は単身ではなく那岐を連れているとは言え、千尋の脱走を咎めもしない。
「実は、戦時中に音信不通となっていた狗奴の里と連絡が着いて、多くの者達の無事が確認されたのだが、同時に嬉しい知らせも届いたんだ。何でも、つい先日、長のところに待望の孫息子が生まれたらしい」
「それで皆さん、こんなに大喜びしてるんですね」
「それだけではない。産んだのは……今の若長の奥方は、次狼の妹なんだ。母子共に元気だとの知らせは、そのこともあって、余計に嬉しくて堪らないのだろう」
「そうですか、次狼さんの……良かったですね。それで、次郎さんの妹さんってどんな人なんですか?」
狗奴の美醜の感覚は千尋達のそれとは少し違うのだろうが、狗奴達の間でも次狼はハンサムガイらしい。もっとも、女性の容姿に対する評価基準は男性とは別ということもあるし、何も見た目で若長に見初められたとは限らないのだが、それでも千尋は好奇心が疼いた。
「そうだな、俺も直接会ったことはないのだが……次狼によく似た、少し細身のなかなかの美女だと聞いている。気立ても悪くはないらしい。ただ…」
「ただ…?」
千尋と那岐が声を揃えて先を促すと、忍人が少し言い難そうに続けた。
「次狼や同郷の者によると……とてつもなく気が強いという話だ」
二人の目が点になった。
あれでは嫁の貰い手などないだろう、と次狼達も常々言っていたのだが、何とその気の強さ故に縁談が舞い込んだらしい。
ある時、辺りを束ねる里長が邑を視察に訪れた際に、邑の男達を叱り飛ばして顎で使う彼女を見て、「是非、息子の嫁に…」と言ったのだそうだ。若長は温和な性格なので、しっかり者で姉御肌の嫁を与えてやりたかったのだという話なのだが、存外、夫婦仲はすこぶる良いらしい。
「世の中、何が幸いするか解らないものなんですね」
「……千尋だって他人のこと言えないだろ。全然お姫様らしくなれずに世話かけまくりで、突拍子もないことばっかりするから、葛城将軍を振り向かせることが出来たようなもんじゃないか」
千尋と忍人は、チラリと互いを見遣ってから相手に聞こえぬ程度に同じことを呟いた。
「………………否定出来ない」

「そ…それで、名前は何て言うんですか?」
千尋が話題を変えるように勢い込んで訊くと、忍人は記憶を手繰り寄せるようにして言った。
「何と言ったか……以前、次郎から聞いたと思ったのだが…」
それを聞いて、千尋は不思議そうな顔をする。
「その知らせって、さっき届いたんですよね?」
千尋の問い掛けに、今度は忍人が不思議そうな顔をする番だった。
そこで、互いの困惑に気付いた那岐が口を挟む。
「千尋…こいつが思い出そうとしてるのは、次郎の妹の名前だよ。でもって葛城将軍…千尋が訊いたのは、子供の名前」
「そうなのか?」
忍人に問われて、千尋はコクリと頷いた。
「まぁ、あの流れじゃあんたが勘違いするのも無理ないけどね。そもそも、幼い狗奴に名前はないしさ」
「えぇ~っ、名前がないって……どういうことよ!?」
驚愕して那岐に掴み掛る千尋に、忍人が説明する。
「狗奴達は、子供の頃は名前はなくて、誰某のあるいは何処其処の”せがれ”とか”子”とか”嬢や”とか呼ばれるんだ。そして、成長して特性が際立って来ると、個人で名乗ることが許される。周りが自然と呼ばわるものが定着したりすることが多いようだが、中には自分で考えたり誰かに頼んで付けてもらう者も居る。無論、周りも認めなければ、誰もその名で呼んでなどはくれないのだが…」
よって、凝った名前や背伸びした名前を付けても誰にも呼んではもらえず、反って恥をかくことになりかねないのである。
「それじゃあ、足往は周りから認められてるってことなんですね」
足往は忍人のみならず、狗奴達全員からちゃんと”足往”と呼ばれていた。それは、狗奴達の慣習からすると、全員が彼個人とその名に恥じぬ足の速さを認めている証なのだろう。
すると、いつの間にか傍に寄って来ていた足往が胸を張って応えた。
「そうだぞ、姫さま。おいら、半人前だけど……あの時も、忍人さまに助けていただいたんだけど……あの戦から生き延びたってんで、名乗りを許されたんだ」
忍人が引き返して来て背負って連れて行ってくれたから命拾いしたという経緯はあるものの、それでもあの厳しい状況で生き延びたことは確かだ。それにより、足往は見習いの小僧から半人前の戦士に昇格した。
「それで、おいら、忍人さまにお願いして名付けてもらったんだ。良い名前だろう」
自慢げに話す足往の横で、忍人は照れたように言う。
「別の名を名乗りたくなったら、その時は遠慮なく変えてくれて構わない」
「そんな事言わないでください、忍人さま。おいら、忍人さまが考えてくれたこの名前、すっごく気に入ってるんです。例え足が不自由になったとしても、一生変えるつもりはありません」
「……そうか」
忍人は、ちょっと嬉しそうだった。

「ところで、千尋……執務はどうしたんだ?」
「それ、今頃気付いたんだ」
那岐はすかさずツッコミを入れたが、千尋は慌てふためいた。
「すすす…すみません。ちょっと、お散歩を…。あの、でも、一応、那岐付きだし……その、もう戻りますから…」
たまたまこの近くで那岐とバッタリ遇って、「一人で出歩いてるトコ見つかったら、あいつに怒られるよ」とくっ付いて来てくれたから良かったものの、危うくいつもの説教を喰らうところだった千尋は、お供が那岐だという不自然さに言及されない内に執務室に向けて急ぎ足で歩き出した。
そんな千尋に、忍人は今まで執務のことを失念していた迂闊さや那岐に散歩のお供の座を取られた悔しさなど、様々な想いを吐き出すように大きな溜息を付く。
「……送って行こう」
「じゃあ、僕はもう用済みだね。後は、よろしく」
言うなり、那岐はこれ以上は面倒だしお邪魔虫になるのは御免だとばかりに、スタコラサッサと反対方向へと去って行った。
程なく追いついた忍人に、千尋は内心の焦りを誤魔化すように先程の話を蒸し返す。
「足往の名付け親が忍人さんだったなんて知りませんでした」
「大人も顔負けの足回りから、足往と名付けたんだが…」
何とか良い名前を付けてやろうと思い悩んだ末、結局それほど凝った名前は思いつけなかったのだが、本人は存外気にいってくれた。他の者達にも簡単に受け入れられてホッとしたのだが、まさか足往があそこまで気に入ってくれているとは思いも寄らなかった。
「わざわざ拾いに戻って背負ってあげたり、一生懸命名前考えたりして……昔から、足往に目を掛けてたんですか?」
「……拾いに戻ったのは、部下を見殺しにはしたくなかったからだ」
一人でも多くの部下を生きて戦地から帰すのが自分の務めであり、師の教えだ。
「でも、他にも本隊から脱落した部下は居たんじゃありませんか?その中で、どうして足往だけが助けられたのか、何か特別な理由でもあるのかと思って…」
「特別と言う程のことではないが…………軽そうだったから…かな」
「へっ?」
「俺が戻って拾って来られるのは一人だけだからな。ならば、然したる怪我もなく、味方と合流するまでの間に万一敵と遭遇しても背負ったままで応戦出来るくらい小柄な者が、助けられる可能性が一番大きいだろう」
「……そういう理由なんですか?」
「恐らく、そんなところではないかと…。あの時は、拾って来ればほぼ確実に助けられると思えて……それを見捨てることなど出来ないと思ったら、駆け戻っていた」
その結果、足往には大層懐かれたし、若手の狗奴達からの信頼も格段に上がった。また、足往は忍人への敬愛からかそれまで以上に鍛錬に励むようになり、随分と腕を上げた。足回りを評価されたことで、その長所も更に生かされるようになって、助け名付けた甲斐があったと言うものだ。
「それじゃあ、足往は運が良かったってことなんでしょうか。あっ、でも、運も実力の内って言うし…」
「そうだな。そして、今はそれなりに腕を上げたのだから、あいつを拾えた俺も運が良かったのかも知れない」
軽く微笑んだ忍人に千尋もつられて笑みを浮かべると、二人は執務室までの道程をしばし楽しく過ごしたのだった。

-了-

《あとがき》

足往の名前は忍人さんが付けたという設定で書いてみました。
MY設定多めです。

「俺の部下をどうしようと俺の勝手だ」とか何とか言って足往を拾って背負って連れて行った忍人さん。
でも、あの状況だと脱落した部下は足往だけではなかったのでは…?
という訳で、忍人さんが足往を拾った理由など、捏造してみました。

忍人さんに一人歩きを咎められない為には誰かお供が居た方がいいかな、と思って、那岐を付けてみました。
那岐ならツッコミ以外はあんまり会話に口挟んで来ないだろうし、狗奴に関して他の人より馴染があると思ったので…。

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