価値ある笑顔

間違って自分のところへ届けられた書簡を手に忍人が道臣の元を訪れると、そこには一ノ宮である息子の忍継が居た。道臣から出された課題を提出に来ていたのだ。
一通りの基礎学問や基礎鍛錬を修了した現在の忍継は、剣術に関しては時間のある時に忍人が見てやることもあるものの、座学は道臣に、武術は布都彦に師事していた。
道臣は柔らかい物腰と優しい口調ながら、出題する内容はかなり厳しかった。与えられた課題について資料を揃え、自分なりの見解を文章に纏めて期限までに提出することを要求する。必要な資料を探すのも選ぶのも、その為に人を使うことも、忍継にとっては勉強の内だ。 そして、提出した竹簡に目を通した道臣から、細かい部分について口頭で確認される。模範解答は存在しない。資料をどのように解釈したのか、どうしてそのように考えたのか、道臣の容赦ない質問攻めに遭いながらも忍継は自分の意見を懸命に言の葉に乗せていく。

白熱した議論が交わされているような様子を、邪魔しないようにそっと忍人が見つめていると、忍継の護衛に付いて来ていた足往がその姿を見止めて声を上げた。
「忍人様、いらしてたんですか」
成長しても相変わらず子犬のように駆け寄って来る足往に、忍人は慌てて口の前に指を立てたが、忍継はハッとしたように口を噤んでしまった。
「父上…御用がお有りなのでしたら、どうぞお先にお済ませください」
忙しい父が自ら足を運んでの用件となれば、さぞや大切なことなのだろうと気を回しての言葉だったが、忍人は苦笑して見せる。
「いや、大した用じゃない。こちらに来るべき竹簡が俺のところに紛れ込んで来たから、座りっぱなしだった身体を少々動かしたくて自分で持って来ただけなんだ。邪魔をしてすまなかったな」
恐縮する息子にそう言って、忍人は不器用な手つきで忍継の頭を撫でてやった。
「良く頑張っているな」
厳しい父親から珍しく褒められて、忍継は嬉しそうに笑みを浮かべる。容姿は忍人そっくりだが、その笑顔が纏う雰囲気は千尋にそっくりだった。見ている方まで幸せな気分になれるような満開の笑顔がそこにあった。
しかし、忍人は思わずつられて微笑みかけた後、複雑な表情を浮かべて手を引いた。
忍継と道臣は、それを不思議そうに見つめる。
「ああ、もしかして…」
ふと思いついて、道臣が口を開いた。
「忍人は、一ノ宮の笑顔を久しく見てなかったのではありませんか?」
「言われてみれば…」
確かに長いこと、忍人は息子の笑顔を見ていなかった。何しろ、通りすがりに見かける時は真面目に何かに取り組んでいたし、休みの日も最近は剣術指南ばかりだ。当然、終始引き締まった顔つきをしていて、浮ついた表情など見せるはずがない。
「久しく見てなかったから忘れていたが……忍継が笑うと、昔の自分が無邪気に笑っているようで、どうにも面映ゆい気がする」
「成長するに従って、一ノ宮はどんどん忍人に似て来てますからね。あなたは師君の元へいらした時から殆ど笑いませんでしたが……これで一ノ宮が笑わなくなってしまったら、時が戻ったのかと錯覚してしまいそうです」
「……俺が笑わなくなったのは環境の所為だぞ。だから、そんなことにはならないと思うのだが…」
「あなたが生育環境に恵まれなかったことは承知していますが……その体験は、よりよい家庭環境を作るために役立てるよう努力してくださいね」
柊や風早からも同じことを言われたが、道臣の口から聞くと忍人も素直に頷くことが出来る。
「それにしても……父親が息子の笑顔に動揺して何とします?そんなことでは、奥方そっくりに育った娘御が笑顔を振りまこうものなら、卒倒して、柊の格好の餌食になりかねませんよ」
その言葉に、忍人は一瞬にして青褪めた。
「見た目は昔のあなたにそっくりでも、一ノ宮は一ノ宮です。姫君方も、先代一ノ姫や陛下とそっくりに育ったとしても、やはり別人でありあなた方の娘御ですよ。ちゃんと御本人を見てあげましょうね」
道臣から諭すように言われて、忍人は神妙な面持ちで頷いたのだった。

忍人と道臣の遣り取りを横で聞いていた忍継が口を開いた。
「私が父上に似たり、この顔で笑ったりすると、ご迷惑なのでしょうか?」
「迷惑じゃない!」
ギョッとした忍人は、勢い込んで息子の肩を掴んで言い募る。
「お前がそんな気を遣うことなどないんだ。第一、子供にそんな気を遣わせたとあっては、俺が皆に怒られ……いや、そういうことではなくてだな……これは俺の心の問題であって…」
なかなか上手く言葉が出て来なかったが、忍人なりに懸命に自分の思いを伝えようと努力した。
「つまり、その……お前は俺とは違うのだから、そんな風に自分を追い込む必要などないんだ。寧ろ、その笑顔はいつまでも大切にして欲しいと思っている」
焦っているような父の姿に、忍継は目を丸くしながらもジッと次の言葉を待った。
おかげでやっと少し落ち着きを取り戻した忍人は、忍継の肩から手を放すと、前屈みになっていた姿勢を戻していつものように腕を組む。そして、口調もいつもの調子を取り戻し、僅かながらに笑みも零れる。
「お前が俺に似るのは誇らしいし、その笑顔を見ると俺も嬉しいんだ。公式な場では必要に応じて表情を制御してもらわねばならないだろうが、普段は素直に笑ったり泣いたりしてくれた方がいい。俺のように笑い方を忘れてしまったら、将来、肝心な時に笑えなくて苦労することになるぞ」
これには忍継も首を傾げる。
「笑えなくて苦労……されたのですか?」
「そうだ。千尋が沈んだ顔をしている時に、慰めようにも微笑みかけることも優しい言葉を投げかけることも出来ずに、どれだけ不甲斐無い思いをしたことか…。お前はそうはならないでくれ」
ここで素直に「はい」と答えて良いものか、忍継はちょっと返答に困ったのであった。

-了-

《あとがき》

忍人さんが弟子入りした頃くらいまで成長した忍継くんです。
容姿はあのスチルそのものです。そんな訳で、あの頃を知る人達からは結構重ね合せて見られることが多くて、嬉しいやら苦労するやら…。柊から見れば忍人さんをからかうネタが目の前をうろうろしてる訳ですからね(^_^;)

敬愛する父親を柊から守ろうと日夜頑張っている所為で、歳に似合わぬ気遣いの人となってしまった忍継くんでありました。
ちょっと空回り気味なところは千尋に似ています。
そうやって息子に気遣われては、忍人さんは己の不甲斐無さを痛感するのです。

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