熊野温泉

土器を焼いている間、暇だった一行は近くの温泉へと繰り出した。
見張りに狗奴を配し、男女分かれて湯に浸かる。
サザキ達は入湯出来ないので邑や天鳥船で留守番していたが、遠夜は皆と一緒に入浴した。但し、柊は適当なことを言って足湯だ。その本当の理由が、全身に残る黒龍の爪痕を人目に曝したくないからだと知っているのは風早だけだった。
見張りは全員信頼のおける者達で、敵の侵入を許すことも盗難の心配もないとなれば、忍人も久しぶりに手ぶらで湯に浸かることが出来る。とは言え、勿論、丸腰という訳ではなかった。短い串程度なら忍人の髪にも隠せる。また、腰から額へと場所を移して巻かれた飾り帯は武器として使うことも出来る。アシュヴィンはもっといろいろと隠し持っていたし、他の者達も程度の差こそあれ同様だ。服を着たままの柊などは普段と殆ど変わらない。
最初に湯の中で注目を浴びたのは、遠夜だった。
「土蜘蛛と言っても、衣を脱いでしまうと人と変わらないのだな」
肌や髪の色は人の間でも様々だったし、化粧を施す者も勾玉を身に付ける者も多く居る。棺から出れば服飾文化に通じた者にしか区別がつかないだろうし、衣を脱いでしまえば人にしか見えない。
遠夜に寄せられた関心は、程なく引いた。代わって注目を浴びたのは忍人だった。
「お前…本当に男だったのだな」
「今の今まで疑っていたのか?」
アシュヴィンの言葉に、忍人はムッとした。言われ慣れてはいるが、やはり言われて面白いものではない。こんなことなら、自分も足湯にしておけば良かったという思いが、心を過った。
「その容姿だ。疑いもするだろう」
「加えて忍人は、昔から身体を拭く時でさえ人目を避けるのですから、疑われて当然でしょうね」
そう言う柊も今は忍人以上に肌を隠しているのだが、忍人よりも遙かに自然に振舞っているので気付かれていない。
「そうそう、全然一緒にお風呂入って貰えない、って羽張彦が嘆いてましたもんね」
昔のことを言いだした柊と風早に、忍人は憮然として言った。
「あれは羽張彦が悪いのだろう。布都彦の前で言うのも何だが……初めて風呂に入った時に散々人の容姿や体格を論ったりするから、二度と一緒には入るまいと決意したんだからな」
「確かに羽張彦は、色が白いだの生っちょろいだの、その他いろいろとても布都彦には聞かせられないようなことを平気で言ってましたね。おまけに、忍人に対してはまるで幼子を風呂に入れる父親のような態度でしたから、嫌われるのも無理はありません」
「兄がそのようなことを……申し訳ありません、葛城将軍」
生真面目な布都彦は兄の代わりに謝る。だが、そんな彼も実は忍人の透き通るような肌や華奢な体付きに、兄と似たようなことを思っていたのだった。
それに対し、忍人はどう返して良いか解らなかった。すると、遠夜が忍人の手を引いて少し離れたところに誘い、他の者達との間に入って庇う。
「おやおや、遠夜は優しいですね。忍人のことを守ろうとしていますよ」

「男湯、楽しそうだね」
漏れ聞こえて来る声に、千尋はちょっと羨ましそうに傍らの岩長姫に話しかけた。向こうと違って、こちらは二人きりだ。広々としているのはいいが、ちょっと寂しくもある。
「忍人の奴、何言われても気にせず堂々としてりゃあ良いものを……いちいち相手にするから、ああやってからかわれるんだ。昔っからそうだったよ。おかげで柊みたいな奴等から見りゃ、良い標的さ」
「そうなの?」
「ああ、いい加減にしなって怒鳴りつけたら、柊が言ってたよ。忍人は無自覚天然の誘い受けなんです、見ているとつい突っついて遊びたくなって仕方がありません、ってさ」
最初は柊を叱っていた岩長姫も、その内考えを改めた。柊ほどちょっかい出す奴は少なくても、どうも忍人は他人にそういう悪戯心を起こさせ易い体質らしい。ならば、自力でどうにか出来るようにならねばこの先困るだろう。何事も修行だ。そう思って放っておいたら、ますます忍人は過敏に反応するようになってしまい、柊は更に調子に乗ってしまった。忍人が出来るようになったのは、せいぜい人と距離を置くことくらいである。
「う~ん、今なら柊がそう言うのも解る気がするなぁ。出会った頃は、怖くてとてもそんな真似出来なかったと思うけど……忍人さんって、困ったり焦ったりの、とにかく余裕を失くした時の顔がすっごく可愛いんだもん。あの仏頂面の仮面を引き剥がしたいって衝動に駆られちゃうんだよね」
「やれやれ、あんたもかい?好きな子苛めたいなんてのは、普通は男の…それもガキの言うことなんだけどねぇ。本当にあいつは厄介な相手にばかり惚れられるよ」
「えっ、やだ、岩長姫ったら…。好きとか、惚れたとか、そんなんじゃ……あ、あるけど…」
千尋は湯あたりした訳でもないのに真っ赤になった。しかも、焦りで裏返った声は男湯まで突き抜けた。

千尋に男湯の声が聞こえたように、男湯にも千尋と岩長姫の会話が漏れ聞こえていた。
「無自覚天然の誘い受け、とはどういう意味だ?」
「そのようにこの私に意味を聞くところが、正しく無自覚天然の誘い受けですね」
忍人は柊を睨み付けたが、遠夜以外の者は全員、今と昔の柊の言に納得してしまった。常に人を寄せ付けぬような雰囲気を放っている忍人だったが、一度親しくなってしまうと、実は戦い以外では結構抜けているところが多くツッコミどころ満載であるのは布都彦ですら良く知るところだ。
そこへ更に、千尋が「柊がそう言うのも解る気がする」と言うのが聞こえると、忍人は何か叫ぼうとしたものの咄嗟には言葉が出なかったのか口をパクパクさせる。
「お、お気を確かに、葛城将軍!」
興奮して立ち上がりかけた布都彦は直後に目を回して倒れ、プカプカと湯面に浮かんで漂ったところを遠夜に掬い上げられた。
離れたところでのんびりと湯に浸かっていた那岐が呆れたように言う。
「他人のことより、あんたが気を確かに持ちなよ」
「大丈夫か、布都彦?」
忍人が自分のことは棚上げして心配そうに布都彦の顔を覗き込むと、那岐は気怠そうに言った。
「頭に血が上ったまま、ずっと肩まで入ってたりするからだよ。あんたも気を付けた方がいいんじゃないの?僕はそろそろ上がらせてもらうからね」
それを機に那岐は先に湯から上がった。布都彦を抱えた遠夜と、忍人もそれに続く。
しかし、他の者達は女湯の会話にそっと耳を欹てたのだった。

「あんたが好きだってんなら、まぁ、いいさ。羽張彦と違って、あいつは望めば女王の婿なんて簡単になれる。戦が終わればあの女だって反対どころか嬉々として段取りを整えてくれるだろう」
「えっ、まだ結婚とかそんなことまでは…」
「考えてないのかい?だったら、気を付けな。あんたがどう考えてるのかは知らないが、あんたが好きとか惚れたって言うのは即そういう意味になっちまう。迂闊に口にすれば相手の意思なんざ関係なくなるからね」
風早や那岐に言うように「大好きだよ」とあっけらかんとして言ってる分には良いが、恋情を抱いていると感じさせる「好き」を人前で女王の口から発せさせたなら、想いに応えるか排除されるかのどちらかしかなくなってしまう。
「うん、気を付けるよ。どうせなら、ちゃんと想い合ってから結婚とか考えたいし……忍人さんに無理強いなんてしたくないもん。そんなの迷惑だろうし、私だって惨めだよ」

「ふん…龍の姫の想い人は、やはり奴だったか」
そんな気はしていたものの少々面白くない、とばかりに上がって行くアシュヴィンの背中を見送って、二人は顔を見合わせた。
「まったく、先生も随分と困ったことをしてくれましたね」
「あそこで布都彦が倒れてくれて助かりました。もう少し遅かったら、忍人が女湯に向って何事か叫んでましたよ」
布都彦が倒れたことで、忍人はそちらに気を取られ、岩長姫に文句を言ったり千尋を叱りつける機を逸した。忍人の説教は、獣の調教に似ている。問題行動に対してはその場ですぐに叱りつけ、後から話を蒸し返すことは滅多にない。
ひとまず忍人の口を塞いだとしても、今度はあの会話だ。千尋の想い人の名を聞けば、布都彦は大騒ぎするだろうし、忍人は変に意識して千尋を避けるようになりかねない。
「温泉というものは、ゆったりと癒される場だと思っていたのですが……このように緊張を強いられることもあるのですね」
せっかく忍人で遊べると思ったのに遠夜に邪魔されるし、師君は姫と余計な話をしてくれるしで、全然癒されませんでした。そう零す柊は、本当に残念そうだった。
「だったら、これから癒されれば良いんじゃないかな。俺はまだまだのぼせたりしないし、あなたは足湯でしょう?皆も居なくなったことだし、今から入ることは出来ますよ」
「それはそうですけど……あんまり長湯すると待ちくたびれた忍人が怒り出しますよ」
「布都彦が回復するまでは入ってても大丈夫ですよ。でも、千尋が湯冷めしない内には上がることにします」
そうして改めてのんびり湯に浸かった二人は、出るなり忍人から雷を落とされたのだった。

-了-

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