想いは乱れて

「将軍は、追撃を喰い止めるために隊の殿を務めておられるので、帰還が遅れるかと…」
戻った部隊からそう報告を受けて、千尋は忍人の帰りを今か今かと待ち侘びていた。

「葛城忍人、ただいま帰着致しました」
臣下として挨拶をする忍人を見て、千尋は堪えきれずにその目から雫を漏らし、慌てて目元を拭った。女王が人前で涙を流しては、また忍人に叱られてしまう。それでなくとも、忍人が戻って来たらしいとの話を小耳に挟むなり薄闇の中を駆け抜けて、端近で出迎えただけでも諫言という名の小言の一つもあって不思議ではなかった。
しかし、忍人は予想外の反応を示す。
「随分と心配をかけたようだな。遅くなって、すまなかった」
思わぬ優しい態度に、千尋は弾かれたように顔を上げると、駆け寄って手を振り上げた。
「忍人さんの莫迦!謝るくらいなら、遅くなんてならないでください」
千尋の平手をまともに受け、忍人は数歩ふらついて狗奴に背を支えられながら倒れ込んだ。その姿に、辺りがざわめく。
「帰ったら、多分、君に殴られるだろうとは思っていたが……少しは手加減して欲しかったな。これでも一応、怪我人なんだ」
「えぇっ!?ごめんなさい、大丈夫ですか」
あたふたと千尋は忍人に手を伸ばす。
それを見て、呆れたように風早は忍人に言った。
「予想してたなら、ちゃんと避けるか防ぐかしたらいいでしょう」
「もちろん、そのつもりだったさ。ただ、身体が思うように動かなかったんだ。殴るにしても、せめて二人きりになるまで待ってもらえると有り難かったのだが……そんな贅沢を言えた立場ではないか」
「あん、もうっ、そういうことは先に言ってくださいよ。そしたら、手を上げたりしなかったのに…」
千尋は慌てて遠夜を呼んだ。
「ちょっと、忍人さん……何を笑ってるんですか。もしかして、傷口から変な黴菌でも入って、頭がどうかしちゃったんですか」
そもそも、いくら正式に婚約しているとは言え、忍人が皆の前でこんな風に臣下としての態度を崩すこと自体そう無いことだ。これは本当に深刻な事態に陥ってるのか、と千尋の心配はいや増すばかりだった。
「くくっ…そんなことはないから安心してくれ。ただ、君が変わってないことが――俺が出征してから随分と経つのに、女王としての成長が碌に見られないことが――今は嬉しくて堪らないんだ。おかげで、間違いなく俺は君の元へ帰って来たのだと、この上なく実感出来た」
それだけ厳しい戦いだった。何度、もうダメかと思ったか知れない。

勝利はほぼ確実と思われ、この戦に勝利すれば当分は近隣諸国は中つ国に刃向かう力などなくなるだろうと期待される中、自暴自棄とも取れる敵の悪あがきで無意味に被害が拡大しているとの報を受けて、忍人は精鋭を率いて出征した。
正直なところ、死に物狂いの敵軍はそれなりに手強かった。しかし、それ以上に厄介だったのは、行く先々で味方の裏切りに遭ったことである。
こんなことなら柊も連れてくれば良かったか、などと少々弱気なことを考えたりもしたくらいだ。そして、どうやら柊が裏で糸を引いていると気付いた時は、連れて来ておけばこの場で絞め殺せたのに、と同行を断ったことを別の意味で後悔した。忍人の力を信じて国内に溜まった膿を出し切るつもりだったにしても、少々やり過ぎのきらいがある。
そんな忍人を支えたのは、もっと酷い状況でも生き延びたあの戦の記憶と、自分を待っている千尋の存在だった。どんなことがあっても千尋の元へ帰らなくては――同じように、彼らを待つ者の元へ一人でも多くの部下を帰してやらなくては――との一念で追っ手を喰い止め、残党を撒くために道なき道を踏み越えた。

ただでさえ長く掛かった此度の遠征で、帰路に於いては一刻も早く千尋に会いたいと強く願っていた忍人だ。だから、女王として振舞い切れなかった千尋の出迎えが深く胸に沁みたのだった。
「忍人さんってば、いつもは女王らしくしろって口煩いのに……こんな時だけそんな事言うなんて狡いです。凄く心配したんですからね。なのに、こんな状態じゃ、これ以上は手出し出来ないじゃないですか。本当に狡いんだから……覚えといてくださいよ、回復してからまた引っ叩いてやりますからね」
「覚悟しておこう。君が忘れても、風早や柊は絶対に忘れないだろうからな」
泣き笑いする千尋の膨れっ面と、駆け付けた遠夜の顔を見ながら、忍人は安心したように意識を手放した。

目の前で忍人に気絶されて千尋は悲鳴を上げたが、遠夜の見立てでは傷の一つ一つは大したことがなかった。
塵も積もればと言うように、失われた血が少しばかり多かったことと、度重なる疲労による昏倒だった。
「こんなに心配させて……本当に、もうっ、こうなったら平手くらいじゃ済まさないんだからっ!」
「そうですね。鉄拳くらいはお見舞いしてやるべきでしょう」
「一発で済ませてやることもないと思います」
憤る千尋を、柊と風早が煽り立てる。
その結果、忍人復帰の報を受けて彼の元へと駆けて行った千尋は、そのままの勢いで鉄拳をお見舞いした。そして忍人が体勢を立て直したところで胸に飛び込み、更にポカポカとその胸や頭を叩く。
「ち…千尋……確か、あの時君は、引っ叩くと言ってなかったか?これは、どう見ても殴ってるだろう」
防御しながら忍人が苦情を申し立てると、千尋は手を開いた。泣きながらペチペチと叩き続ける千尋には忍人もそれ以上何も言えず、後はもう一切抵抗せずに、ただ黙って千尋の気が済むまでしたいようにさせる。
「忍人さんの莫迦~!本当に、本当に、物凄~く心配したんですからね。莫迦、莫迦、莫迦、莫迦、莫迦~っ!!」

-了-

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