おかしな夫婦

ふらふらと歩き回っていた柊の耳に、何処からか忍人と千尋の言い争う声が届いた。
声を頼りに進んで行くと、内宮の裏庭で言い争う二人と、おろおろする風早と、呆然と立ち尽くす一ノ宮の姿が見て取れる。
柊は気配を殺してそっと近づき、風早を手招きした。
「どうしたんですか、あの二人は……夫婦喧嘩にしては様子がおかしいですよね?」
「忍継がどちらに似たのかで、どちらも譲ろうとしないんですよ」
さりとて自分に似てないと言っている訳ではない。では、自分に似ていると言っているのかというと、これまた違う。「こういうところが千尋に似ている」「いいえ、寧ろそこは忍人さんに似ている」と言い合って、どちらも一歩も引かないのだ。
「解りました。では、ひとまず同時に口を塞ぎましょう。風早は我が君をお願いします」
柊と風早は遁甲して忍人と千尋の背後に忍び寄ると、同時に片手で口を押えながら腰に手を回して互いを引き剥がした。

「仲が良いのは結構なことですが……自分のことで両親が目の前で言い争う姿を見続けた一ノ宮の気持ちを、少しは考えたらどうなんですか。御覧なさい、こんなに居心地悪そうにしているではありませんか」
忍人を叱りつける柊の言葉に、千尋も忍人共々跋の悪い顔で忍継を見遣った。
「すまん…つい、熱くなってしまった」
「母様も父様も怒ってたり喧嘩してた訳じゃないからね」
そう言われても、忍継はすぐには立ち直れない。
「一ノ宮様、ご両親は仲が良過ぎて言葉に力が入り過ぎただけですので、どうぞお気になさいますな」
「部屋に戻って、おやつにしましょうね」
柊の目配せを受けて、風早はまだ混乱冷めやらぬ忍継を抱えて去って行った。

「まったく……夫婦喧嘩は時と場所を選ぶべきものですよ。もっとも、先程の論争は、何処からどう聞いても惚気と親バカにしか聞こえませんでしたが…」
柊の言葉に、千尋と忍人はボソッと応えた。
「……別に、喧嘩してた訳じゃないもん」
「……惚気や親バカではなく、率直な意見だ」
勿論、それらは柊には全く受け入れられなかった。
「それで、そもそもの原因は何だったのですか?」
「原因は……何でしたっけ?」
柊の問いに、千尋は答えようとしたものの何が原因だったか思い出せずに、忍人にお伺いを立てる。
「……事の発端は、君が執務室から脱走したことだ」
「そこまで遡りますか!?幾らなんでも、それは原因とは言えないでしょう?」
異を唱える千尋に、しかし忍人は首を横に振って見せた。
「元はと言えば、脱走した君を捜しに来て、同じように一人で出歩いていた忍継を見つけて捕獲することになったんだ。それで連れ戻しがてら説教してたら、君が割って入ったんだろう?そんなに厳しく言わなくても良いんじゃありませんか、とか何とか言って…」
「だって、忍人さんってば子供相手なのに容赦ないんですもの。母親としては、庇ってあげなくちゃって思うじゃないですか」
「しかし、その母親に似て忍継がこれからも脱走を繰り返したら大変だろう」
「だから、そこは父親に似たんだって何度言わせるんですか!」
そこで柊は再び忍人の口を塞いだ。これ以上二人に話を続けさせたら先程の二の舞になることは必至だった。先程のように、ここが似てるだのあそこが似てるだのと、次から次へと相手に似てるところを挙げ続けて、惚気と親バカのバーゲンセールに突入するのは目に見えていた。
そして、目を丸くしている千尋に何食わぬ顔で告げる。
「お話はよく解りました。我が君……執務を抜け出して来られたのでしたら、そろそろお戻りになられた方がよろしいのではございませんか?ねぇ、忍人、あなたもそう思うでしょう?」
すると忍人は、柊にも千尋にも言いたいことはあったものの、”執務”の一言で仕事モードのスイッチが入り、あっさりと頷くと話を切り上げたのだった。

執務室へ戻る道中、そのまま一緒にくっ付いて来た柊は、思い出したように呟いた。
「それにしても、我が君はともかく、まさか忍人があれ程までに一ノ宮のことを気に掛けていたとは…」
「我が子のことを気に掛けて何が悪い?」
「悪くなどありません。ただ、驚愕しているだけです」
失礼な、と睨む忍人に、柊は澄まし顔で続ける。
「ですが、昔のあなたを知る者にとっては、これは天地が引っくり返るようなことですよ。そもそも忍人が我が君に懸想しただけでも驚きですが、子供にまでそれ程に愛情を持つなど、到底想像出来ませんでした。あなたにとって大切なのは我が君だけで、子供はおまけ。結果の産物。それでも何ら不思議に思わなかったでしょうね」
「随分と酷いこと言うんだね」
千尋はご立腹である。
「申し訳ございません。それほど、昔の忍人は人としての情を持ち合わせていなかったものですから…」
「まぁね、それはいろいろ聞いてるし……忍人さんも、昔は人の情に疎かった、って自分で言ってたけどさ」
「ええ。昔のままならば元より我が君が婿にと望まれるとは思われませんが、政略で結ばれていたなら、姫宮を得るまで我が君の負担など顧みずに夜な夜な王婿の義務に励み、後は知らん顔だったでしょう。とても今のように、我が君の御身体を思い遣って休日前夜だけなどというお行儀のいい真似など致しますまい」
「そこは、ちょっと気を遣い過ぎかもって思わなくもないんだけどね」
照れ笑いする千尋に、忍人は困ったような顔をして見せた。

執務室に着いたところで、千尋はふと思い出したように言った。
「そう言えば、何だって皆、そんなに姫を切望するんだろうね。アシュヴィンはうちの娘を嫁に欲しがってる訳だから、姫じゃなきゃダメだってのも納得いくんだけど……世継ぎなら、忍継が居るでしょう?女王が尊ばれるとはいっても、王が立ったって記録だってあるんだよ。なのに、姫を望む声が年々高まってさ。忍継のことを何だと思ってるの!?」
「どうしても姫が誕生しなかった時の中継ぎ程度にしか思ってないんだろうな」
その言葉に、千尋は非難を含んだ驚愕の目を忍人に向けた。
「昔、父や母のことをそう話している親戚連中が大勢居た」
自分達よりも遠縁でありながら次代の長として本家に迎えられた父に対する妬みと、人形のような母に対する嘲りだったのだろう。しかし、当時の忍人は「そういうものなのか」と思っていた。夢の世界に生きているような母については勿論のこと、父についても忍人は、常に祖父の顔色を伺い、息子に対しても遠慮がちな態度を取るような姿に、それ故のものなのだと受け止めてしまったのだ。
後に、父はそのような人間ではないと悟ったものの、橿原宮で再会した父から「潰しそうで触るのが怖かった」と聞かされるまで妙なわだかまりが残り続けていた。更に、その言葉の意味が腑に落ちたのは、忍継を抱き上げた時である。
忍人の話を聞いて、千尋がその時の忍人の様子を思い出して軽く笑った。
「誰だって最初は慣れなくて不安だと思いますけど……葛城の長って力強そうですものね」
葛城の長は、筋骨隆々とまでは言わないが、かなり逞しい体つきをしている。対して忍人は、今でもそうだが、昔から見た目は並の女性以上に華奢である。それでは、下手に触ると潰してしまいそうだと尻込みしても無理はない。
「ああ、俺も……好き勝手に駆け回るようになった忍継を捕まえる時は、脱走した君を捕まえる時同様に、細心の注意を払っている」
「……脱走した君云々は余計だと思います」
千尋が不満そうに漏らすと、柊が口を挟む。
「いいえ、我が君……この場合、そこは大変重要な意味を持っております。忍人が我が子をそれだけ大切に思っているということなのですから……そうでなくて、このような言葉が出て来るはずがございません」
「あっ、そうか。でも、私は脱走して忍人さんに捕まったりした覚えなんてありませんよ。見つかったら、腕づくで連れ戻される前に、ちゃんと謝って自分から戻ってますもん。寧ろ、忍人さんの方がこっそり抜け出して柊や風早にとっ捕まってるんじゃありませんか」
千尋が軽い気持ちでからかうように言うと、忍人は真っ向から反論する。
「君が覚えていないだけだろう。窓から抜け出そうとしたり柵を乗り越えようとしている君を、何度引き戻したか知れない」
しかし、千尋も引かなかった。
「そんなことありません。捕獲された回数は、忍人さんの方が絶対に多いです!」
「それは……そうかも知れないが…………しかし、君だって何度も俺に捕獲されてるだろう。それを忘れて良い筈がない」
「……忍人は、自分の方が数多く捕獲されてるってことは認めるんですね。でしたら、どっちもどっちですので、その辺でやめておいて下さい。夫婦喧嘩は犬も食わないって言うでしょう?」
千尋の忠犬である柊も、一人で夫婦喧嘩の仲裁に入るのは御免である。しかもそれが、こんな風に何処か論点のずれたおかしなものでは、さすがに関わり合いになどなりたくないと心底思わずには居られないのであった。

-了-

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