夢想大敵

執務時間が終わろうという頃、帰りの護衛の為に忍人が執務室を訪うと、千尋は卓子に伏せてスヤスヤと眠っていた。
「執務中に居眠りなどして……疲れているのだな。どうせ今日はもう終わりだし、とくに書類も溜まっては居ないようだから、少しくらいなら見逃してやるか」
「……忍人さん」
幸せそうな顔をして寝言で名を呼ばれ、忍人は僅かに口元をほころばせた。
「俺の夢を見ているのか?」
しかし、千尋がそこで表情を曇らせて続けた寝言に、忍人は硬直した。
「忍人さん……ごめんなさい。これからは気を付けます」
「……俺は、君の夢の中でまで、君を叱りつけているのか?」
これにはかなり凹んだ。夢に見る程に、自分は千尋に口煩く説教してばかりいたのか、と己の所業を顧みる。

ふらふらと歩いて来る忍人を見つけて風早と柊が様子を見ていると、忍人は二人に気づかなかったのか何の反応も示すことなくすれ違って行った。
柊がスタスタと忍人の前方に回り込んで行く手を遮ると、忍人はそのままポスッと柊の胸に突っ込む。
「驚くほどあっさり捕獲出来ました」
風早に報告するように告げながら、柊は忍人を抱えて戻って来た。
「忍人……忍人、気をしっかり持ってください。何があったんですか?」
風早が肩を掴んで揺すっても、頬をペチペチと叩いても、忍人の視線は遠くを見たままだった。
「我が君から、大っ嫌いとでも言われたんでしょうか?」
「でも、莫迦とか大っ嫌いって、千尋が腹を立てた時の常套句ですよ。そのくらいでこんな風には…」
すると、千尋の名前に忍人が反応する。
「千尋が…」
風早と柊は、忍人に注目した。
「……ごめんなさい、これからは気を付けます、と寝言で謝るんだ」
ああ、それは面と向かって「大っ嫌い!」と言われるよりも衝撃的ですね、と風早と柊は深く溜息を付きながら頭を抱えた。なまじ、弾みや勢いなどではないだけに、これは辛い。しかも、慰めようがない。

「ぅわぎゃあ~~~~~~っ!!」
宮内に忍人の悲鳴が響き渡った。
「離せ、柊!一体、どういうつもりなんだ!?」
「おや、つれないことを仰いますね。あなたの方から、私の腕の中に入って来たのではありませんか」
「嘘をつくな!」
「嘘ではありません。呆然自失といった体で、自ら私に身を寄せたんです。ねぇ、風早?」
「ええ、まぁ、そういう表現も出来なくはありませんでしたけど…」
「そんな莫迦な!?」
「そして、さめざめと私の胸に泣き縋って…」
「それは脚色し過ぎですよ、柊。泣いてはいませんでしたから、そこは安心してください」
「安心……出来ないのだが…」
何しろ、まだ柊の腕の中に収まったままだ。腕を引き抜こうにもままならず、柊を殴りつけるどころか突き飛ばすことも適わない。
「忍人も正気に戻ったことだし、そろそろ離してあげたらどうですか?」
「嫌です。こんな機会は滅多にありませんし……嘘つき呼ばわりされた仕返しをしたところで、罰は当たらないと思います」
「解った、悪かった、その発言は撤回する。だから、離せ」
「誠意が足りません」
「誠意って…」
「あなた、それで謝ってるつもりなんですか?そもそも、あんな状態でフラフラ歩いてたら、今頃どうなってたか知れないんですよ。それを何ですか、成り行きとは言え私達はあなたを守ってあげたようなものなのに、とんでもない悲鳴を上げて大騒ぎして挙句に嘘つき呼ばわりなんて……失礼にも程があるでしょう」
忍人はぐうの音も出なかった。
「悪いと思ってるなら、もう少しこのままで居てもらいましょう」
もがく忍人を柊はしっかりと抱え直す。
「我が君に寝言で謝られて深く傷付いたことには同情いたしますが…」
途端に、忍人は弾かれたように首を反らして、目を瞠った。それから、悔しそうにしばらく柊を睨み付けた後、目を潤ませる。
「えっ、ちょっと、忍人…?」
「もしかして、泣いてるんですか?」
千尋の寝言の所為で、今の忍人の精神状態はかなり危ういものとなっていた。そこへ、柊の腕から逃れることはおろか言い返すことも出来ない悔しさに、更に改めて寝言のことを言われて、忍人は涙を堪える術を見失ってしまった。
目元からはとめどなく涙が溢れ、それを隠す為か、忍人は悔しそうに俯くと柊の胸に顔を押し付ける。
こんなことになるとは思いもしなかった柊と風早は、慌てふためいた。
「どうしましょう、これ…」
「とりあえず、何処か人目に付かない処へ場所替えしましょう。さっきの悲鳴で千尋が起きたかも知れません。もし、こんなところを千尋に見られたら…」
しかし時既に遅く、その最悪のタイミングで千尋が現場に駆け付けたのであった。

「何やってるの!?」
千尋が駆け付けるなり、風早は固まり、柊は反射的に手を放して降参のポーズを取った。途端に忍人は柊を突き飛ばし、その反動で壁に頭をぶつけてズルズルとへたり込んだ。そこでハッとして千尋から顔を背け、急ぎ袖で涙を拭う。
「忍人さん……もしかして、今、泣いてました?」
「ち、違うっ!これは、ただ、頭をぶつけた弾みで涙が出ただけで…」
「嘘が下手ですね。弾みで涙が出たくらいでは、目が赤くなったり頬に筋が付いたりはしないと思いますよ」
千尋は忍人の前に立膝でしゃがむと、その頭を胸に引き寄せて、先ほど打った後頭部を優しく摩った。それから、身体を捻って背後の二人をキッと睨み付ける。
「忍人さんに、何をしたの!?返答次第では、タダじゃおかないよ!」
「誤解です、千尋。俺は何もしてません」
「待ちなさい、風早。それではまるで、私は何かしたみたいではありませんか。私だって、何も悪いことはしてませんよ」
「そう、風早は柊を止めなかったし、柊は悪いことをしたつもりはないのね?でも、柊にそのつもりがなくても、忍人さんにとってはそうじゃないってことは、これまでだって沢山あったでしょう」
「ですが、今回は違います。忍人を泣かせたのは私達ではなくて…」
そこで柊は、続きを言うことを躊躇った。泣かせたのは我が君です、などと簡単に口に出来るものではない。それは風早も同じだ。
「柊達じゃないなら、誰だって言うのよ」
千尋が「他には誰もいないじゃないの」と重ねて言うと、思わぬところから返答があった。
「君が…」
その声に、千尋のみならず柊達も驚いた。まさか忍人が認めるとは思わなかったし、ましてや自分達を庇うように口を挟むなどとは思いも寄らなかったのだ。
しかし忍人は、例えそれが柊であっても、誤解で責められるのを見て見ぬ振りなど出来なかったのである。

恥を忍んで正直に忍人が事情を語ったことで、柊達の疑いは晴れた。本当に何もしなかったとまでは言えなかったものの、柊のちょっとした意地悪は辛うじて千尋の許容範囲内に収まっていたらしい。
すると、その説明に納得したところで、千尋はふと疑問に思う。
「それにしても……どうして、誰も来ないのよ!?普通、あれだけ派手な悲鳴が聞こえたら、もっと人が集まるでしょう。野次馬とか、物見高い連中とか、見物人とか、傍観者とか、警備の兵とかが…」
――我が君……野次馬と物見高い連中と見物人と傍観者は殆ど同じものです
――どうして、そこで挙げられる中で、警備の兵が最後なんだ
柊と忍人が心の中でツッコミを入れていると、風早が複雑な笑みを浮かべて応えた。
「だって、千尋……忍人のあの悲鳴を聞いて、どう思いました?」
「どうもこうも、驚いて飛び起きたよ。そのくらい宮内に響き渡ったのに、誰も来ないなんておかしいじゃない。なのに、一緒に来たはずの足往と次狼さんも、いつの間にか姿消してるし…」
「足往と次郎が一緒だったのか」
珍しくしっかり護衛を付けて来たのかと忍人は感心したのだが、千尋はそうとは知らずに興奮したまま続ける。
「そうですよ。途中でバッタリ会って、やっぱり姫さまは独りで忍人さまのところへ行こうとしてたんだな、って言って一緒に来てくれたんです。そりゃ確かに次狼さんは、忍人様のお近くまで護衛致します、って言ってましたけど……近くまで来たら本当に消えちゃうなんて思いもしませんでした。他にも、執務室に向ってる狗奴さん達とは何度か顔を合わせたものの、皆、足往と同じようなこと言うと護衛は二人に任せて何処か行っちゃったし……とにかく、ここへ向かおうとしてる人は誰も見かけませんでしたよ。一体、どういう警備体制を敷いてるんですか、忍人さん?」
単独で部屋を飛び出したと判って苦言を為す前に、女王から警備体制の不備を指摘された形となって、忍人は冷や汗ものだった。そこへ風早は笑って続ける。
「まぁまぁ、千尋……そこは忍人の不手際じゃありませんから、そう責めないであげてください。そういうことじゃなくてですね、あの悲鳴を聞いて、どんな事態を想定して駆け付けて来ました?」
「どうって……また柊が忍人さんを苛めてるんじゃないかって思って、それで急いで助けに来たんだよ」
「皆も、同じですよ。忍人があんな悲鳴を上げたのは柊に何かされたんだと思って、殆どの者は柊と関わり合いになりたくなくて身を潜めたでしょうし、一部の兵は忍人の名誉を重んじて近寄ることをしなかったんだと思います。足往や次郎など狗奴の者達は間違いなく後者ですね」
「成程」
――そんなにあっさり納得出来るものなのか!?
柊と忍人は、心の中で同時に同じツッコミを入れてしまった。
「もっとも、その所為で危うく千尋の単独行動まで見逃しそうになってしまったのは、兵達の手落ちと言えなくもないでしょうけどね。おかげで忍人は部下に泣き顔を見られずに済んだんですから……そのことで部下をあんまり責めないようにね、忍人」
確かに、あんまり叱り過ぎて今後はすぐに駆けつけるようになられても嬉しくはないので、こういう時は千尋の安全に気を配るようにと軽く注意を促すだけにしておこう、と思う忍人だった。
「それにしても、狗奴の者達は、さすがに千尋のことまでよく解っているようですね」
「ええ。忍人の悲鳴を聞いて、忍人ではなく我が君の元へと向かうとは……間近まで護衛して来て、忍人の屈辱的な姿は見ないようにするその心遣いも天晴です。良い部下を持ちましたね、忍人」
「ああ、改めて彼らのことを誇りに思う」
自分への心遣いも然ることながら、とにかく瞬時に千尋の元へ駆け付けたその判断が有り難かった。呆然自失となった挙句に柊に捕えられて身動きの適わなかった自分の代わりに、よくぞ千尋を守ってくれた。自分の所為で千尋を危険な目に遭わせたとあっては、幾ら後悔してもし足りないところだ。

「う~ん、でも、まさか忍人さんがそんなことで泣くほどショックを受けるとは思いませんでした」
「……そのことだけで泣いたわけではない」
話を戻されて面白くなさそうにする忍人の前で、千尋は記憶を手繰り寄せる。
「寝言かぁ……そう言えば、旅をしてた頃の夢を見てた気がするなぁ」
「あの頃の忍人は、口を開けば説教ばかりでしたものね」
「そうそう、よく叱られて……あはは、今でも時々叱られるんだけどね。でも、全部、私の為に言ってくれてるんだし、何も言われなくなったらその方が嫌だな。見捨てられたみたいで、寂しくて悲しくなると思うもの。だから、忍人さん……めげたりせずに、これからも遠慮なく叱ってくださいね」
笑顔で千尋がそう言うと、忍人はしばし逡巡した後に口を開く。
「ならば言わせてもらうが……執務中に居眠りするとは何事だ。ましてや、後先構わず単独で飛び出すなど……俺を助けようとするその心意気は有り難く思うが、もっと自分の立場を考えて行動するべきだろう。次狼達が急ぎ護衛に付いたから良かったものの、万一のことがあったらどうするんだ。軽率だな。君には王としての自覚が足りないと見える」
すると千尋は弾かれたように言った。
「ごめんなさい、これからは気を付けます」

-了-

《あとがき》

千尋に寝言で謝られて、多大なショックを受ける忍人さん。
忍人さんは、周りが思ってるよりも、日頃から千尋に優しい言葉をかけたり他愛のない会話が出来ていないことを気に病んでおります。
甘い言葉なら、時々爆弾発言をしてるんですが……意図的に発したものではないので、忍人さんの中では千尋に掛けた言葉で思い当たるものは叱りつけたものばかり(^_^;)q

そして千尋は、叱られたその時は本気で以後は気を付けようと思うものの、しばらくするとまた同じようなことを仕出かします。
なので、忍人さんに叱られて「これからは気を付けます」って応えるのは殆ど条件反射? (^_^;)

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