無茶の代償

激戦の中、敵の矢が千尋の肩に突き刺さった。
「姫を退避させろ!」
即座に忍人の声が響き、風早が千尋を抱えて後方へ下がる。
「怯むな!退路を確保しろ!」
狗奴達はこの程度のことで取り乱しはしなかった。しかし、千尋に付いて来た兵達には動揺が走る。そして、布都彦も気がそぞろになっていた。
「拙いな。想像以上に兵達が浮足立っている」
忍人の怒号で兵の一部は持ち直したが、一度下がった士気はそう易々とは回復しない。おまけに、持ち直すまでの僅かな時間で崩れた陣形を、改めて整えるには敵の勢いがあり過ぎた。
少しでも被害を減らす為、忍人と狗奴達は多少の無理をしてでも一度に多くの敵を相手取ったが、それでも引き受けられる数には限度がある。肉を切らせて骨を断とうとしても、敵の方で避けて通られてはどうにもならなかった。
このままでは、下がった二ノ姫の元まで敵が進んでしまう。忍人は焦りを覚えた。

味方の一角が完全に崩されると思ったその時、攻め込む敵の一団に矢の雨が降り注いだ。
「あれは……姫の『誓約』?」
後方に視線をやると、千尋が天に向かって天鹿児弓を引き絞っていた。
「皆、今、助けるよ!」
千尋の声が響き、兵達は歓声を上げた。すかさず、忍人が全軍に向って大音声を放つ。
「姫は無事だ!一気に押し返せ!」
兵達は雄叫びを上げ、その転進の早さに虚を突かれた敵は散り散りになって敗走して行った。

味方が引き上げるまでは気丈に振舞っていた千尋だったが、辺りに人が居なくなるなり泣き出した。
「痛い…」
そう呟いてしゃがみ込んでボロボロと涙を流す。
「あ~あ、無茶するからですよ」
風早は幼子をあやすように千尋を抱き上げてポンポンと背中を叩いた。
肩に刺さった矢を引き抜こうとして風早に止められた千尋は、邪魔になる箆を懐剣で切り捨てて再び前線に戻った。鏃はまだ体内に残ったままである。そんな状態で弓を引き続けるなど無茶としか言い様がなかったが、千尋のその無茶のおかげで多くの味方が救われたことは確かだった。
「船に戻ったら、すぐに忍人に手当てしてもらいましょうね。手慣れてますから、本当にすぐ済みますよ。もうちょっとだけ辛抱してください」
風早が宥めるように言うと、忍人が近付いて来る。
「二ノ姫…」
歩み寄る忍人に気付いて、千尋は慌てて涙を止めようとしたが上手くはいかない。
「今は、泣いて構わない。俺達の前では、我慢しなくて良いんだ。ここまで良く頑張ったな」
優しい声音で言われ、大きく開かれた千尋の目から更に涙が溢れ出す。
忍人が複雑な顔で痛み止めの丸薬を差し出すと、千尋は何とかそれを飲み下し、風早に抱えられて天鳥船に帰り着いた。

「先に戻った道臣が、手当の準備を整えているはずなんですけど…」
千尋を部屋へ運び込むと、遠夜は既に部屋の隅で薬を調合しており、お湯やら清潔な布やらが次々と運び込まれて来ていた。それらをザッと見遣って柊が言う。
「消毒用の酒がありませんね。師君から頂いて参りましょう」
無くても何とかなるが、あった方が良いことは確かなので忍人達は柊を待つことにした。すると、遠方から岩長姫の怒声が轟く。
「くぉ~らっ、柊~っ!!」
風早と忍人は顔を見合わせた。
「あれは……先生の酒をくすねた時の怒りの声ですね」
「勝手に持ち出そうとしたのか?あいつの足で師君から逃げ切れるはずがないだろう」
許可を取る間を惜しんだとしても、捕まれば反って余計な時間が掛かるだけだ。それよりは、最初から事情を話して分けてもらった方が余程良い。二度手間になったとばかりに忍人が師の元へ向かおうとすると、酒壺を抱えた足往が駆け込んで来た。
「これ、姫様の部屋に持って行けって、柊が…」
「成程、そういうことか」
どうやら柊は、説明する暇を惜しんで酒をくすね、それを足往に託したらしい。確かに、足往の足なら相手が岩長姫であっても追い付かれる心配はない。柊がその場に残って事後承諾を取り付けるのと並行して、こちらでは千尋の手当てを進めることが出来る。
酒を盗まれて怒り狂った師を相手に事情を説明するのはかなり難しいが、死ぬ間際まで口が回りそうな柊なら何とかするだろう。ボコボコにされることはあっても命までは取られまい。
そう見切った忍人と風早は、柊の尊いつもりの犠牲を無駄にしないよう、すぐさま千尋の手当てを開始した。

那岐と足往に片方ずつ千尋の膝を押さえさせ、風早は千尋に猿轡を噛ませると羽交い絞めにした。
忍人は小柄を取り出すと、まずは血の滲んでいる部分を中心に千尋の衣服を切り開く。それから、露わになった部分の千尋の肌をおしぼりで拭い、小柄と自分の口と手を岩長姫秘蔵の強烈な酒で拭い清めた。
「泣いても喚いても良いから、絶対に自分の舌だけは噛むな」
猿轡を噛ませてはあるが、念のためにそう言い含めて、忍人は小柄を構えた。
「では、忍人のお手並み拝見と行きましょう」
「任せろ。すぐに済ませる」
言うなり、忍人は鏃の埋まったすぐ傍に刀を滑らせた。良く手入れの行き届いた小柄は、綺麗に千尋の肌を切り裂き、忍人は刃先を僅かに動かしただけで鏃を抉り出して見せる。
その手早さに千尋が目を丸くしていると、忍人が傷口に口を付けた。残っているかも知れない鏃などの欠片を血と共に吸い出す為だ。切開された時よりも、その方が痛かった。恥ずかしさも相俟って千尋は身を捩って逃げようとしたが、風早にしっかり押さえられていたこともあり、忍人は動じることなく手当を続けた。 傷の周りを改めておしぼりで拭い、傷口を酒で消毒するなどの作業を、手際よくこなしていく。
「縫わなくても済みそうですね」
「思ったほど深くは刺さっていなくて良かったな。取り出すにも浅く切るだけで済んだし……後は任せていいか?」
「ええ、それはもう…。幾ら手当ての為でも、必要以上に千尋の肌をあなた方の目に曝したくはありませんから……って、忍人!?」
そこで初めて、風早は忍人の下袴が赤く濡れていることに気付いた。
「……こちらは、思ったよりも深かったようだ」
「苦笑いしてる暇があったら、さっさと手当てなさい!ここで、今すぐに…」
風早に怒鳴られて、忍人は千尋に背を向けると上着を落としてその場に座り込んだ。短衣の上からきつく巻かれていた晒が脇腹を中心に真っ赤に染まり、血が下袴にまで染み出していた。それを解き、短衣を脱ぎ捨てると、誰の目にもその肌にかなり広範囲に血がこびり付いているのが見て取れた。
風早より早く染みに気づいて居ながら、てっきり返り血だとばかり思っていた那岐と足往も驚いて立ち尽くす。
千尋も、床に落とされた晒と垣間見えた忍人の姿に、傷の痛みを忘れたように見入っていた。

忍人はてきぱきと自分の手当てを進めて行くのを横目に見ながら風早は千尋を衝立の陰へと運び込むと、遠夜から薬を受け取り、千尋の服を脱がせて残りの手当てを開始した。そして、せっせと手を動かしながら、少しばかり怒りも含んだ声音で呆れたように言う。
「千尋を優先してくれたことは有り難く思いますけどね……そんな深手を負いながら、無理するんじゃありません」
「まったくだね。先に自分をどうにかしときなよ」
那岐からも追い打ちをかけるように言われたが、忍人は平然と受け流す。
「応急処置はしておいた。ならば、姫を後回しになど出来ないだろう?」
千尋はこれまで荒魂の攻撃を受けたことはあったものの、矢傷を受けたのはこれが初めてだった。武器による直接的な傷を負い、どんなに痛くて怖かったことか。それでも戦いに戻り、弓を引き絞って気丈に振舞い、懸命に涙を堪えて居たのが見て取れた。それは決して忍人が口煩く「人前で涙を見せるな。取り乱すな」と言っていたからではなく、皆を心配させるまい不安にさせるまいとしてのやせ我慢であり、皆を守りたい一心での無茶だった。戻ったら一刻も早く手当てしてやらねば、と思いながらひとまず痛み止めの薬を渡そうとしてみれば、ボロボロと泣いている姿が目に映り、「彼女らしいな」と肩の力が抜ける一方で、これはもう絶対に後回しになど出来ないと思ったのだった。
そんな胸の内を一切漏らさない忍人に、千尋は弱々しい声で言う。
「……無茶しないでください」
「君にだけは言われたくないな。確かに少々無理はしたが、無茶はしていない。それに、一つ一つは大したことないんだ。ただ……結構数を斬られたな」
事もなげに言いながら、忍人はおしぼりで血を拭って行く。確かに脇腹の傷はかなり深かったが、他は殆どが掠めた程度で既に血が止まっていたようだった。

風早に丁寧に包帯を巻いて貰った千尋は、怪我をした部分にかかる負担が減少し、忍人から貰った薬も効いて来たのか大分痛みが和らいだ。そうなると、矢傷一つでボロボロ泣いていた自分が恥ずかしく思えて来る。
そんな千尋の目の前で、忍人は自分の腕や太腿に小柄を付き立てた。そこに残された鏃を弾きだし、口が届かないので傷口から血を絞り出す。
「忍人さま……おいら、お手伝いします」
「いや、いい。この方が早い。お前も知っての通り、俺はこういうことには慣れている」
造作もなく片手で処置を進める忍人に、那岐と千尋は目を丸くした。風早の言う「手慣れてますから」とは、こういうことだったのかと、千尋は驚愕する。
激戦を生き抜き数々の武勲を上げた陰には、それだけの修羅場があったことを改めて思い知らされた。忍人は決して後方に控える作戦司令官ではなく、最前線に立つ戦闘隊長であり一人の戦士なのだと認識させられる。
「……無理もしないでください。忍人さんって、そうやって何もかも自分で背負い込んじゃうから……心配です」
「自重するよう心掛けるとしよう。だが、俺の身を案じる気があるなら、君も行動を慎むことだな。君が独り歩きをやめてくれるだけでも、俺にかかる負担は間違いなく半減する」
素っ気なく言われて千尋が膨れっ面になると、その横で風早がクスッと笑った。
「千尋のことが心配で堪らない、って素直に言ったらどうなんですか、忍人?」
「えっ、今のって、そういう意味なの?」
弾かれたように見上げて来る千尋に、風早は解説するように言う。
「そうですよ。千尋が独り歩きをやめたら負担が半減するってことは、他の事を全部合わせたのと同じくらいの労力を千尋の為に費やしてるってことでしょう?だから、せめて忍人の怪我が治るまでは、千尋も大人しくしててくださいね。さもないと忍人は、傷が開くのも構わず千尋を探し回っちゃいますよ」
心情を風早に暴露された忍人は、背後から物言いたげな数々の視線が突き刺さるのを感じながら、黙々と手当てを進めて行った。

「ただ今戻りました。我が君のご容体は如何ですか?」
忍人の手当てが済まぬ内に、柊が姿を現した。
「お早いお帰りで…」
「それに、随分と元気そうだな。師君にボコボコにされて、当分は動けないだろうと思っていたのだが…」
手を止めて振り返った忍人は、風早に続いて少し呆れながらも感心したように言った。
すると、柊が額を摩りながら応える。
「ええ、危うくそうなりかけましたが、何とかご理解いただけました。幸い、鉄拳は回避出来まして……ただ、額が床と親睦を深め過ぎました。それ以上仲良くせずとも良さそうなところを、師君に踏まれて随分と深い仲に…」
足往以外は、その言葉で何があったか察しが付いた。
「はは…さすがは柊です。本当にどんな状況でも口は回るんですね」
「そのおかげで二ノ姫の手当てもすぐに出来たことだし……ここは、よくやったな、と言ってやるとするか」
「ふふふ……忍人が褒めてくれるなんて、珍しいですね。でしたら褒めついでに、いっそ御褒美くれる気になんてなりませんか?」
どうせ怒鳴られるだろうと思いながらダメ元で言ってみた柊だったのだが、しばし考え込んだ忍人からは意外な言葉が返って来た。
「ならば褒美代わりに、これ、手伝わせてやろうか?」
忍人が自分の傷を指し示すと、柊は嬉々として駆け寄り、忍人の傍らに膝を付いた。
「はいっ、やります、やらせてください。それで、何して良いんですか?」
千尋達には、柊の腰にブンブン振り回される大型犬の尻尾が見えた気がした。
「手伝わせてやろうか、って偉そうに言う葛城将軍もどうかと思うけど…」
「柊にとっては、本当にあれが御褒美になるんだな」
「ええ、まぁ、忍人が柊に、自分に触れても良いと言うのは滅多にないことですから…」
「うん、普段なら絶対、あんな真似は許さないよね」
そんな彼らの目の前で、「痛い」「下手くそ」「もっときつく」「それではきつ過ぎる」と文句を言われながら、柊は嬉しそうに忍人の身体に包帯を巻いたのだった。

-了-

《あとがき》

忍人さんの立ち位置を改めて考えてみました。
行き着いた先は、千尋の前では部下の前以上に平気な振りしてしまう意地っ張り。部下相手だと、弱みは見せられないというプライドと士気を下げまいとする責任感で平気な振りをしますが、千尋相手だと心配させたくないからというのが理由です。

足往の為に解説しておきますと……足往に酒壺を渡した柊は、岩長姫に殴られる前に速攻で土下座しました。
事情説明中ずっと岩長姫に頭を踏まれてたので、額が床とかなり親睦を深めることに…。

そして、自分一人で出来るけど、褒美として柊に包帯を巻かせてあげる忍人さん。
着けっぱなしの手袋で傷口に触れさせる訳にはいかないけど、巻きかけの包帯の続きを巻くくらいなら可でしょう。その過程で、腕を取ったり足に触ったり、とにかく忍人さんに密着出来るので、柊にとっては充分に御褒美となっています(^_^;)

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