罠
柊の部屋から出て来た忍人は、人目を避けて天鳥船から出ようとし、途中で崩れ落ちた。
    不調の原因は解っている。
    柊に捕まり、散々弄ばれたからだ。
    巧みな言葉で、あの水辺での千尋の姿を繰り返し思い出させ、妄想をかき立て、忍人の欲情を煽り続けた。そんな柊の仕打ちに、忍人は身も心も焼き切れそうだった。
      とにかく、身体の熱だけでも冷まさなくてはと思うのだが、思うように動けない。
      辛い身体に鞭打ってどうにか脱出を図るが、そこへ一番会いたくない相手がやって来た。
      「忍人さん、どうしたんですか!?」
      声を聞いただけで熱が上がる。心配そうに顔を覗き込まれれば、尚更のことだ。
      「触るな!」
      伸ばされた手から逃れようと懸命に身を捩り、目を逸らす。
      「でも…」
      「放っておいてくれ!」
      今触れられれば、もう自分が抑えられなくなる。しかし、そんなことを千尋に告げることは出来ない。今の自分の状態を知られる訳にはいかない。ましてや、その理由など…。
    その忍人の努力は一応実り、千尋は泣きそうな顔で駆け去って行った。
何とか壁を伝って天鳥船の出口近くまで来た時、後ろから風早が駆けて来た。
      「大丈夫…ではないですよね?」
      「…見れば解るだろう」
      こういう時の常套句として「大丈夫ですか?」と言い掛けた風早だったが、忍人の言う通り、大丈夫でないのは見れば明らかである。
      「えぇっと…何か俺に手伝えることはありますか?」
      「近くの川にでも放り込んでくれると助かる」
      即座に返って来た忍人の答えに、風早は僅かに首を捻ってから問い返した。
      「柊をですか?」
      聞かなくても、忍人がこうなったのは柊の仕業だと解る。何しろ、忍人にこのようなダメージを与えられる人間は、千尋と柊しか居ないのだから…。その千尋から泣き付かれて風早がここへ来た以上、犯人は柊しか居ない。
      「違う…俺をだ」
    忍人が苦しそうに答えると、風早はすぐにその身体をお姫様抱っこで抱え上げた。
    そして、運ばれ方に文句を付ける気力も薄れかけていた忍人は、黙ってそのまま川まで運ばれて行ったのだった。
「もうじき着きますよ。そうしたら、ご要望通り川に叩き込んであげますね」
      「叩き込むのではなく、放り込むくらいにして欲しいのだが…」
      浸けるくらいにしてもらえると尚良い、と言う忍人に、風早は目だけ笑ってない笑みを浮かべて見せた。
      「ああ、そうでしたね。千尋の泣きそうな顔を思い出したら、つい…」
      「……泣かせてしまったのだろうか」
      千尋の泣き顔は見たくないし、こうして話を聞くだけでも辛い。しかし、あそこで触れられれば、そんなものでは済まなかっただろう。
      「嫌われても仕方ないな」
      千尋と忍人の仲を引き裂くことも柊の目的の一つだったはずだ。その思惑通りになるのは癪だが、それでも千尋をもっと酷く傷つけてしまうよりはずっと良い。
      すっかり落ち込んでいるような忍人の様子を見て、風早は少しだけ機嫌を直したようだった。
      「とりあえず、後で言い訳くらいは聞いてあげましょう」
      「……すまない」
      風早は、川辺に着くと忍人を静かに水の中に下ろしてくれる。
    しばらくその流れに身を浸し、何度か頭まで浸かり、やっと火照りが静まって来たところで、忍人は風早に全てを正直に話したのだった。
「柊も、とんでもないことしてくれますね」
      話を聞き終えて、風早は頭を抱えた。
      「だから、あなたは千尋を遠ざけたんですね?」
      「ああ、あのままでは恐らく俺は彼女を…」
      好きだと、愛していると自覚したばかりの忍人にとって、あんな状態で千尋に触れればどうなるか……柊はそこまで計算していたのか、どちらに転んでも忍人が千尋を傷つけることになるように仕組まれていたものと思われる。
      落ち込む忍人の頭にそっと手を置くと、風早はゆっくりと撫でた。
      「よく、千尋を守ってくれましたね」
      「……子ども扱いするな」
      「子供なら、こんな風に苦しみませんよ」
      風早の言いたいことは何となく解ったので、忍人はしばらくそのままで居た。
      「千尋には…そうだなぁ、忍人は酷い風邪をひいたことにしましょうか。千尋に感染すまいとして、あんな態度をとってしまったって…」
    「俺は風邪などひいていないが…」
      そんな見え透いた嘘で誤魔化せるものかと言いたげな忍人に、風早は自信を持って言い切った。
      「大丈夫です。あなたは明日の朝には絶対に風邪くらいひいてますから…」
      「えっ!?」
    「だって、この寒空にこんなに長々と川の水に浸かってても風邪ひかないなんて……そんなの羽張彦くらいのものですよ」
風早の予告通り忍人は酷い風邪を引き、ひとまず千尋に嫌われずには済んだものの、しばらく寝込むことになった。
      その陰で柊が「これで当分、忍人は破魂刀を使えませんね」と満足そうに笑っていたことを聞いて、忍人は自分がどこまでも柊の掌の上で踊らされていたことを知ったのだった。
-了-

