頼みの綱は藁と猫

病み上がりで連日頑張ってる千尋を心配して、忍人が適当に口実を設けて執務室へ行くと、千尋は大きく伸びをしているところだった。部屋の外からかけた声に気付いてないらしいその様子に、改めて声を掛けることを躊躇った次の瞬間、千尋はそのまま卓子に突っ伏し、「あ~ぁ」と声を漏らす。
「陛下…」
呆れたように何度か声を掛けたが千尋は見向きもしなかったので、忍人はそっと近寄るとその耳元に口を寄せた。
「千尋」
「んぎゃっ!」
半分眠ったようにぼんやりしていた千尋の頭は、一瞬にしてクリアになった。反射的に跳ね起きると、目の前には傷付いたような忍人の顔がある。
「驚かせたのは悪かったと思うが、いくら何でもその反応はないだろう」
「すすす…すみません。何だかぼ~っとしてて……でもでも、寝てた訳じゃないんですよ。それに、あんな声上げたのも悪気があった訳じゃなくて…」
千尋が慌てて言い訳すると、忍人はそれ以上とやかくは言わなかった。千尋が言うまでもなく、居眠りしてた訳ではないことは見てて解っていたし、咄嗟に上げた悲鳴にあれこれ文句をつけても仕方がない。それでも、妻の耳元で優しくその名を囁いて「んぎゃっ!」と叫ばれたという事実に、些か傷心気味の忍人だった。

「えええ…ええっと…忍人さんはどうしてここに…?」
「これについて陛下の御意向を確認する、という名目で君の顔を見に来たのだが……これはまた、随分な溜め込み様だな。これら全てが、本当に君でなくては扱えないものなのか?」
山と積まれた竹簡を見て、忍人は目を疑った。ここまで溜め込むにはかなりの日数が必要なのではないかと思われる程の数だった。
いくら先日まで千尋が風邪で寝込んでいたからと言って、それだけでこれ程までに溜まるとは思えない。ましてや、復帰後の千尋は脱走することなく真面目に執務をこなしていたのだ。まさか、出歩かぬ代わりに、ずっと居眠りしていた訳でもあるまい。

千尋もやられた此度の風邪は、宮内で猛威を振るい、更なる拡大を防ぐために皆大事を取るよう通達が出たことで各部署では多くの者が欠勤している。その所為で、復興したての頃以上の人手不足となり、中には上層部が軒並み休んだ部署もある。本来ならば女王の元までは上がることの無いようなものまで権限の都合で上がって来るようになったことが、一因となっていることは否めないだろう。だがしかし、この量は異常であった。

「僅かでも軍に関係しているものがあったら俺に回せ。何処かにまとめて弾き出しておいて、適当なところで誰かに運ばせればいい」
「そうします……と言っても、どれが軍に関係してるのか手に取ってみるまで解らないし、この山を見ているだけでどんどん気力が萎えてくし…」
竹簡の山へと目を遣った千尋は、大きく溜息を付いた。
「まさか、きちんと分類されていないのか!?」
忍人が驚愕して近くの竹簡を数本取り上げてみると、表題からして部署も種類も区々だった。念の為に中も確認すれば、表題通りの内容で、それらが整頓されて積まれている訳ではないことは明らかだった。これでは、千尋でなくても処理に時間が掛かるだろう。税の話が出たかと思ったら土木工事の話やら神事の話と、考えるべき物事の方向が目まぐるしく変わる。この分だと、間が空いて似たような申請が上がって来ている可能性もある。そもそも、本当に各部署内では処理出来ないものなのかも疑わしい。
「文官達は一体何を考えているんだ。碌に分類もせず、何もかもを混ぜこぜにしてただ他人に押し付けるだけならサザキのような鳥頭にだって出来る。これは何処のどいつの仕業だ。意図してやったのなら、背任行為だぞ」
人手不足は言い訳にならない。それを補うために、雑用係として、軍からは兵達を都合し、近隣の様々な族から縁故による臨時雇用もしている。彼らは本当に使いっ走り専用なので処理効率は良いとは言えないだろうが、それでもそのツケを全て女王に丸投げするなど以ての外だ。
持ち込んだ者達は何とも思っていないのだろうか、と忍人は首を捻る。貸し出した兵達はこの惨状にまで守秘義務があるとでも思っているのか、何も言って来ていない。直接忍人に言えないまでも、報告として挙げてくれれば、もっと早くに何らかの手を打てたかも知れないのに、と忍人は兵達に怒りを覚えた。
同時に忍人は、千尋も何も言ってくれなかったことを、少々残念に思う。せめて、初めてこの山を見たその日の内に、愚痴の一つも溢して欲しかった。
どの段階でこんないい加減なことをまかり通しているのか早急に調べ上げ、正していかなくてはならない。しかし、今は何よりも目の前のこれをどうにかすることが先決だった。
「こういう時は、柊が居ると便利なのだが……肝心な時に役に立たない奴だ。君がこうして大変な思いをしているとなれば、何処からともなく手伝いに現れそうなものなのに……そこの小窓から名前を呼んだら湧いて出た、なんてことになっても、今なら笑って許せるのだがな。とりあえず、那岐や風早に下読みと仕分けをさせたらどうだ?」
居ない者をアテにしても仕方がないし、今は文句を言っても始まらない。まずは、出来ることから手を付けようと促す忍人に、千尋も同意した。
「そうですね。二人に頼んでみます」
「くれぐれも自分で呼びになど行かないでくれ」
「わ…解ってますよ、そのくらい。ちゃんと采女に言付けます」
千尋はすぐさま、部屋の隅に控えていた采女に二人を呼びに行かせた。そうして部屋に二人っきりになったのを良いことに、忍人にお強請りをする。
「キスしてください」
突然のことに、忍人は唖然とした。”キス”が何を意味しているかは、さすがに今ではよく解っている。
「今、ここで…?」
「はい。そうしてもらえれば、この後また頑張れると思うんです」

忍人は、しばし逡巡した後、ボソッと言った。
「今ここで口付けなどしたら、それだけでは済まなくなるかも知れない」
途端に、真っ赤に茹で上がった千尋がヘナヘナと崩れ落ちる。
「千尋!?」
慌ててその身を支えた忍人に、千尋は上擦った声音で訴える。
「腰…抜けかけました」
「すまない。先程あんな悲鳴を上げられたから、巻き返しを図ってみただけだったのだが…」
「……極端に走り過ぎですよ」
忍人が何とか立ち直った千尋から手を離すと、千尋はもう一度キスを強請った。
「残念だが、それはお預けだな。何しろ…」
忍人は振り返って鋭く言い放つ。
「居るのは解っている。さっさと入って来い」
すると、気まずそうな顔で柊が入って来る。
「申し訳ありません、我が君のお邪魔をするつもりはなかったのですが…」

上手く気配を殺して聞き耳を立てて居たものの、忍人の口から想像を超える爆弾発言が飛び出し直後に千尋に何事か起きたことで、さすがの柊も動揺してその存在を察知されてしまったのだった。
「どこから聞いていたのかは知らんが、今は特別にこう言ってやろう」
忍人は、僅かながら笑みを浮かべて告げた。
「良くぞ戻って来てくれた。師君をして大臣10人分と言わしめたその能力に期待している」
何を言われたのかと耳を疑う柊の前で、千尋が目を瞠って呟く。
「忍人さん……本当に今なら柊が湧いて出ても笑って許せるんですね」
「当然だ。嘘や冗談であんな事は言えやしない。この状況で、柊が居ると居ないとでは大違いだぞ。ここで叩き出すなど、そんな勿体無い真似が出来るものか」
「忍人が私の帰りを喜んでくれるなんて、夢のようですね。どうせ夢なら、いっそのこと、この胸に飛び込んで”おかえりなさい”とか言ってはくれないものでしょうか」
滅多にない状況に夢見心地で胸に手を当てて柊が言えば、千尋が諌めるように止めに入る。
「ちょっ…柊、あんまり調子に乗らない方が…」
しかし止めようとした千尋の目の前で、忍人は躊躇うことなく柊の胸に飛び込んだ。
「おかえり、柊。これ程お前の帰りを喜ばしく感じたことはなかったぞ」
呼出しを受けてちょうどやって来た風早と那岐は、この現場を目にして、見てはならぬものを見てしまったかのように壁に張り付いた。
「まさか、忍人が些かの躊躇いもなくやるとは思いませんでした。どうやら、想像以上に事態は逼迫しているようですね」
そこまで窮地に追い込まれていた自覚のなかった千尋も、柊と一緒に目を丸くする。
「ふっふっふっ……全ての片が付くまでは、絶対に逃がさん。大臣10人分どころか20人分の働きをするつもりで、仕事に励んでもらおうじゃないか」
柊の胸元から顔を上げた忍人は、怒りを転換したような怪しい笑みをたたえていた。それは何処か、泣きそうなのを我慢しているようでもある。
「この状況では無理もありませんが……千尋の為となると、忍人は殆ど捨て身ですね」
「でも、確かにこれは、いくら葛城将軍でも、柊に頼りたくもなるってもんだろ」
風早と那岐が部屋の中を覗いてそう漏らすと、忍人は柊から離れて表情を引き締めて応じる。
「ああ、その通りだ。どうやら、随分と杜撰な処理がまかり通っているらしい。早いところ、これを何とかして根本から正さねば……このままでは国が立ち行かなくなる恐れもある。3人共、ここはよろしく頼むぞ」
切迫していた事態と疲弊していた千尋、それに気づかずに居た自分が不甲斐無い。そして忍人が何よりも悔しいのは、この期に及んでこの場での手伝いが許されないことだった。
大将軍の地位と王婿の身分は、こんな時は障害にしかならない。女王の仕事に直接手を出せば、片や越権行為であり、片や驕慢と映ってしまう。柊のように臨時顧問として国務にもある程度の裁量権を有しているか、風早や那岐のように雑用しか出来ないと見なされていないと、この場で千尋を手伝うことは出来ない。
だから、今の忍人は彼らに頼るしかなかった。
「ふふっ…我が君の為とあらば、私は身を粉にして働く所存ですが……忍人からそんなにも頼りにされては、ここは常にも増して張り切らざるを得ませんね」
「俺も、千尋の為なら精一杯頑張りますよ」
「仕方ないね。面倒だけど、猫より遙かに役に立つってところを見せてやるよ」
3人は、直ちに手分けして仕事に取り掛かった。
それを安堵したように見遣った忍人は、先ほどの千尋の願いを素早く叶えて執務室を後にしたのだった。

-了-

《あとがき》

千尋の耳元で囁いたら「んぎゃっ!」と言われて傷付く忍人さんとか、柊の胸に飛び込む忍人さんとか、別々に書いていたものを組み合わせて一つの作品にしてしまいました。

「溺れる者は藁をも掴む」「猫の手も借りたい」ってことで、こんなタイトルになりました。
藁よりも確かに頼れる柊と、猫の手よりも役に立つ風早と那岐ですが、忍人さんは「あれは藁だ、猫だ」と自分に言い聞かせて、手伝えない悔しさを紛らわせております(^_^;)

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