マリッジブルー

「千尋は初めてなんですから、優しくしてあげてくださいね」
風早から笑顔で刺された釘が、忍人を苦しめていた。その日が近付くにつれて、風早の声が頭の中で繰り返し響く。
「優しく、とは…?」
その場で聞き返した時には、風早は素知らぬ顔でこう答えた。
「そんなこと…俺の口から説明出来る訳ないじゃありませんか」
一縷の望みをかけて道臣に相談に行ったが、さすがの道臣も何の力にもなれなかった。
「そのようなことに関しては、私達の中では、柊が一番詳しいと思います」
羽張彦が一ノ姫と恋仲になる前など柊はよく一緒に師邸を夜中に抜け出して何処かに行っていたし、あの口の上手さでかなり遊び歩いていたものと思われる。
「柊か…」
忍人は深く溜息を付いて、卓子に突っ伏した。
道臣に言われるまでもなく、柊に聞くのが一番早いと解ってはいたが、聞きに行ったらどうなるかも解るのでそれだけは避けたいと思う忍人だった。

「お困りのようですね」
婚儀が目前となった頃、忍人が聞きに行かなくても何処からか聞き付けて、柊の方からやって来てしまった。
「風早も無理を言いますね。忍人にそんなことを言っても無駄と解り切っているでしょうに……嫌がらせのつもりなのでしょうか」
「勝手にやって来て、言いたい放題だな」
またもや卓子に突っ伏していた忍人は、上体を起こしたものの、柊の方を見ようとしなかった。組んだ両手に額を付けて、深く溜息を付く。
「私が教えて差し上げましょうか?」
「…嫌だ」
これまで散々遊ばれて来たのだ。柊がどうやって教えるつもりか容易に想像がついた。絶対、ここぞとばかりに押し倒そうとするに決まってる。
「意地を張って、姫に苦しい思いをさせるつもりですか?」
「……千尋はそれでも良いと言ってくれた」
忍人の様子がおかしいことに気付いた千尋に問い詰められて、正直に理由を話すと、千尋は笑顔で言ってくれたのだ。
「気にしないでください。忍人さんが手慣れてる方が変ですよ。私は大丈夫ですから……だって忍人さんを独り占め出来るんですもの」
そう言ってもらえて少しだけ気は楽になったが、千尋にそこまで言わせてしまったことがまた憂鬱の種なのだった。
事情を知った千尋に叱られて風早が落ち込み、忍人に何も言わなくなった代わりのように自分の部屋の隅で壁に向かってブツブツ言うようになったところで、その言葉が脳裏から離れるわけではない。
「我が君はそれで良くても、私や風早は良くありません。姫の好意に甘えてないで、少しは努力したらどうなんですか?」
「努力…と言われても……お前のことだから、碌でもない教え方をする気だろう。そんなのは御免だ」
「おや、よくお解りですね。こういうことは言葉を重ねるよりも、実習あるのみです」
「要らん!」
「遠慮は無用です」
「遠慮などしていない。要らないからそう言ってるだけだ」
突っ撥ねる忍人に業を煮やした柊は浮かべていた薄ら笑いを消して言った。
「そこまで言うなら仕方がありません」
諦めたのかと細やかな期待を抱いて忍人が顔を上げると、柊は怪しい目つきで言い放った。
「優しくしないとどうなるのか……我が君が感じるであろう苦痛を、その身で思い知りなさい」
危険な空気を感じ取って、忍人は咄嗟に椅子を蹴立てて飛び退いた。すると、追うように柊の手が伸びて来る。何とか躱すも、狭い部屋の中だ。おまけに、柊は忍人の動きを容易く読んでしまう。殴り倒そうにも、下手に攻撃を仕掛ければ反ってその手を掴まれかねない。斬りかかったところで結界に弾かれるだけだし、さすがにこんな場所で刃傷沙汰は避けたい忍人は、徐々に逃げ場を失くして行った。

「俺に変な真似をすると、千尋に絶縁されるぞ」
追い詰められた忍人は、思い切って千尋の名を楯に取った。
「おや、他者の名に頼るとは、あなたらしくありませんね。虎狼将軍ともあろうものが、虎の威を借りる狐になり下がりましたか?」
「自らそう名乗った訳でもなし……何とでも言うが良い。お前にこの身を好き勝手に扱われるよりは遙かにマシだ。この際、形振り構ってなど居られるか」
呼称など、他人が勝手につけるものだ。第一、柊に莫迦にされたくらいであっさり黙り込むなら、端から千尋の名を出したりしない。
柊は少し怯んだものの、思い直してまた迫って来た。
「要は、我が君に知られなければ良いだけのこと。自ら進んで恥を晒すような…あなたにそんな真似が出来るものですか。その高い矜持が邪魔して、一言だって漏らせやしませんよ」
「生憎、それで傷つくような矜持は持ち合わせていない。お前を奈落の底へ叩き落とす為なら、何もかも全部千尋にぶちまけてやる」
柊の動きが止まった。その目はまだ逃がすまいとして忍人の動きを探っているものの、それ以上近付くことを躊躇っている。
「ならば、あまりにも耳汚しでとても話すことなど出来ないような目にでも遭わせて差し上げましょうか?」
「その時は、詳細を省いてただ一言告げるだけだ。柊に無体な真似をされた、と…。法に照らし合わせて処刑するのでなければ、それで充分。それだけで、お前は千尋から絶縁状を叩きつけられる」
千尋なら絶対にそうすると言う確信が、忍人にも柊にもあった。
互いに、喜ばしいことと嫌なこと我慢出来ないことを天秤にかけながら、相手の出方を探り合う。共に得も言われぬ緊張が漲っていた。

そして、ついに柊が引いた。
「今日のところは諦めますけど……いつまでも姫の裾陰に隠れて居られると思ったら大間違いですからね!」
悔し紛れの捨て台詞を残して去って行くその背を見送って、忍人は心底安堵した。周り中を取り囲んだ敵を全て返り討ちにした時よりも、破魂刀を使った時よりも、遙かに疲労を感じる。
それでも忍人は重い身体に鞭打って仕事に戻ったのだが、一段落するとまた風早の言葉が脳裏を駆け巡り、その度に苦悩の渦に飲みこまれそうになるのだった。

-了-

《あとがき》

千尋が誰と結婚しようとも、風早は冒頭の台詞を言うのではないかと思っています。その中でもアシュヴィンにはよくよく念を押しそうな気がしますが…(^_^;)
でも、多分それで悩むのは忍人さんだけ。
遠夜や布都彦は意味が解らず言葉通りに受け止め、アシュヴィンや柊は鼻で笑い、那岐は無視すると思われます。

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