気遣い

忍人と千尋の婚儀が間近に迫った頃、式典に必要な香炉の一つを柊が割った。
数の多さ故にすぐに事が露見する心配はないので、毎度のこととばかりに風早が代わりを焼きに行く。
そして数日間留守にして香炉を焼き上げて戻って来ると、見知った顔が2つ、連れ立って歩いていく姿が目に留まった。
「柊、忍人…今、戻りました」
声を掛けられて、2人共足を止めて、風早を出迎えた。
「あれ?忍人、ちょっと顔色悪くありませんか?」
「大したことはない」
「何言ってるんですか。このところ良く眠れてないし、今朝も食事を残したくせに…。少しは休みなさい、と何度言わせる気ですか?」
それを聞いて、風早は驚いた。忍人は元々睡眠時間は短い傾向があるが、どんな時でも食事はしっかりと取る。身体が資本なのと、食べられる時に食べておくべき環境の所為だ。少々体調が悪かろうが無理してでも食べる、そういう習性がついていた。それが、食事を残したとは…。しかも、今朝もと言う言葉からするとこれが初めてではないらしい。
しかし、ここで忍人に普通に休めと言っても聞き入れられないのは、風早にもよく解っていた。
「そうそう、帰り道でお茶菓子買って来たんですよ。甘くないのもあります。留守の間の様子なども聞きたいですし、ちょっとお茶でも飲みませんか?」
「柊が同席するなら、俺は遠慮する」
そう言うと、忍人は立ち去ろうとした。しかし、少し行ったところで、足を止めて前に屈む。
「どうしたんですか!?」
2人が急いで駆け寄ると、忍人は鳩尾の辺りと口を押えていた。
「忍人、もしかして……つわりですか?」
どこからそういう発想になるんだ、と怒鳴りたくても今にも吐きそうな忍人には出来なかった。すると、風早が悪ノリする。
「えぇっ、柊ったら、ちゃんと避妊しなきゃダメじゃないですか!?」
「ああ、すみません。忍人があまりにも可愛い顔するものですから、つい…」
「…ふざけるな」
小さな声でどうにかそれだけ言った忍人だったが、それ以上何か言おうとすれば、本当に吐きそうだった。それは己の矜持が許さない。
忍人が怒鳴り返さないのを見て、2人は事態の深刻さを覚った。
「これはどうやら、笑い事では済まないようですね」
「俺は遠夜を呼んで来ますから、柊は忍人を部屋へ運んでください」
ずっと我慢していた胃痛に責め苛まれ必死に吐き気を堪えていた忍人には、柊の手を拒む力は無かったのだった。

「どうですか、遠夜?」
問われて、遠夜が何事か答える。
「胃に穴…ですか?」
確認する柊に遠夜は頷いて見せた。
「…忍人は気苦労が多そうですからね」
風早が納得したように言うと、柊も遠夜もしっかりと頷く。
「でも、何がそんなに負担になったのでしょう?」
「千尋との結婚に今更ながらに責任感じてるとか、何日もの間千尋の顔見てないのが辛いとか…?」、
現在、千尋は婚儀の為に潔斎中である。式典の時まで、侍従にして家族同然の風早でさえ顔を合せることは許されない。
「ええ私も、このように近くに居りながら、我が君の麗しいご尊顔を拝することが出来ぬ日々は辛くて堪りません」
すると、遠夜の薬で少し苦痛が和らいだ忍人が、吐き捨てるように言った。
「柊の所為だ」
「えっ、それじゃあ、やっぱり柊の子供が…!?」
「…それはもうやめろ」
先程の性質の悪い冗談を混ぜ返す風早に、忍人は怒鳴りたい気持ちを堪えた。今は、まだそこまで回復していない。
「ははは…でも、今更柊の1人や2人でどうにかなるようなあなたでもないでしょう?」
「私は2人も居ませんよ」
「そうだ、こんなのが2人も居て堪るか」
吐き捨てるように言った忍人は、苦し気に続ける。
「千尋は潔斎中で会えないし、風早は香炉を焼きに行ってるし、道臣は式典の準備で飛び回ってるしで……暇を持て余した柊に四六時中付きまとわれて、えらい迷惑だ」
「それならそうと、言えば良いものを…」
柊はそう言うが、勿論、忍人は言った。何度も何度も、それこそ数えきれないくらい。しかし、何度言おうとどんな表現をしようと、全て聞き流して柊は付きまとっていた。暇なら好きなだけ竹簡でも読み漁っていればいいものを、やれ「お茶飲みましょう」だの「お散歩行きましょう」だのと言って、忍人の傍を離れようとしなかったのだ。
それは、柊が何とかして忍人に休憩を取らせようとしてのことだった。しかし、そんな真意が伝わることなどある筈もなく、忍人は満足に食事も取れない程胃を痛めて尚やせ我慢を続け、ついに倒れてしまったのだった。

後にこのことを知った千尋は、忍人の目の前で柊をビシッと叱りつけた。
そして、風早直伝の氷の微笑を浮かべて「当分その顔見せないでね」と言い放ち、柊を部屋から叩き出したのだった。

-了-

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