一夜の宿

千尋との結婚が間近に迫ったある夜、辺りが大分寝静まっている中、忍人が仕事部屋で引き継ぎ資料を作成していると柊がひょっこり顔を出した。
「ああ、まだ起きてたんですね。助かりました」
「どうかしたのか?」
助かった、などと言われても何のことか解らなかった忍人に、柊はちょっと困り顔で告げる。
「実は、風早に締め出されまして…」
「何か気に障ることでもしたのか?」
「違いますよ。今しがた着いたところ、もう風早が寝てしまっていたんです」
ふらふらと気ままに姿を消したり見せたりしている柊は、千尋と忍人の婚礼を見るためにこうして橿原宮に帰って来たのだが、思ったよりも帰着時間が遅れてしまったのだ。
何か大事があるなら予兆も感じられるのだが、突発的に生じるほんの少しの障害は柊も全てを予測は出来なかった。余裕は充分過ぎる程あったはずなのに、そんなことが積み重なって想像以上に時間を取られてしまったのだ。
千尋の侍従としてその続き部屋を与えられている風早や軍の責任者として常駐するために私室を与えられている忍人と違って、根無し草のような柊は橿原宮に自分の部屋を持っていない。だから、ここに居る時は風早の部屋に寝泊まりしているのだが、その風早が既に寝てしまっていては入室出来ない。そこで、こうして忍人を頼って来たという訳だ。
「あなたの部屋に泊めてもらえませんか?」
「ああ、いいぞ」
「そこを何とか…って、えっ、いいんですか!?」
てっきり断られると思っていた柊は驚いた。断られてもあれこれ食い下がって承諾させるつもりだった。それでもダメなら、酒の相手をさせられる覚悟で師の邸にでも転がり込むしかないと考えていたのだが、存外簡単に事が運んでしまった。
「では、お言葉に甘えて…」
あまりにもあっさりと了承されたことに戸惑いつつ、柊は忍人の部屋へと向かったのだった。

それから程なく、柊が再びやって来た。
「忍人、何ですかあの部屋は!?」
血相変えて駆け込んで来た柊に、忍人は涼し気な顔で応じる。
「どうかしたのか?」
「埃だらけの蜘蛛の巣だらけで荒れ放題じゃないですか。一体、いつから帰ってないんです?」
「最初からだ」
その立場故に私室を与えられても、すっかり仕事部屋に寝泊まりすることに慣れている忍人は、端からその部屋を使っていなかった。元々、不要だと言ったのに形式上設けられたようなものだ。その上、誰もが勝手に入ることを畏怖するので、掃除される機会には恵まれない。
「だから使っていいぞ。どうせ俺は使わないし、もうすぐ俺の部屋ではなくなるしな」
千尋との婚儀が済めば、忍人は女王の部屋に移り住むことになる。これでやっとあの部屋も、お役御免になって有効利用されるようになるだろう。それまでの間、自分は使わないのだから、柊が寝泊まりしても一向に構わない。
「道理で、あなたがあっさり承諾したはずです」
柊はガックリと肩を落とした。
その様子を見て、忍人はフッと笑った。それから足元の床板を剥がして予備の毛布を取り出すと、柊に向って放り投げた。
「何ですか?」
訝しむ柊に、忍人は僅かに綻んだ表情で答える。
「嫌なら外で寝ろ、と言いたいところだが……お前のそんな姿を見られて、今の俺は少しばかり機嫌が良いんだ。特別に、そこの隅で休むのを認めてやる」
「はぁ、それはどうも…」
野宿と師邸と床の3択を迫られた柊は、忍人の気が変わらない内に、忍人の対角線上の隅っこで急いで横になったのだった。

-了-

《あとがき》

忍千ベースだけど完全に忍人+柊です。
たまには、忍人さんの方が優位に立つ話も書いてみようと思いました。
忍人さんの仕事部屋の床下には、非常食やら寝具やらが常備されているという設定です。
「忍人の部屋へ泊めて欲しい」と言ってくる柊は、場所は知ってても実態は知らなかった模様(^_^;)

indexへ戻る