寝不足警報

ふらふらと橿原宮を歩き回っていた柊は、水場で激しく顔を洗い続けた挙句に洗髪でもするかのように頭から水を被っている忍人の姿を見かけて、驚いて駆け寄った。
「何やってるんですか、忍人!?」
「……眠い」
素直な声音で返って来た答えに、柊は目を丸くする。
「そんなことする程眠いなら、仮眠をとったらいいでしょう?仕事が溜まってるなら、私が代わってあげますから…」
岩長姫の進言で千尋によって全部署の臨時顧問に任命されている柊は、忍人の内務の殆どを肩代わり出来るだけの権限があった。その気になれば、忍人よりも遙かに早く処理出来る。今の忍人は、訓練や見回りなどの実務は布都彦達にある程度任せているので、柊が少し手伝うだけでも空き時間は簡単に作れるのだ。
「溜まっていると言う程では…」
言い掛けて、忍人はハッとなったように顔を上げると素っ頓狂な声でその名を呼ばわる。
「ひ、柊!?」
「……もしかして、気付かずに返事してたんですか?それは、かなり深刻な事態ですよ。今すぐ休んでください」
「いや、お前のおかげでしっかり目が覚めた。もう大丈夫だ」
呆れ返っている柊の前で忍人はそう主張したが、柊はそれを認めなかった。
「ダメです。私に気づかないような判断力で、何を決裁するつもりですか?あなたが判断を誤れば、多くの者が迷惑します。事と次第によっては我が君の命にも係わるのですよ」
そう言われると、忍人も我を通すことは出来なかった。
「必要な時はちゃんと起こします。仕事もちゃんとやりますから、安心して休んでください」
柊は良く嘘をつくし何かと誤魔化すが、やると言ったからには本当にちゃんとやる。忍人も、その点では柊の言葉を信じていた。
「…解った。よろしく頼む」

そろそろ千尋の仕事が終わろうとしている頃、目を覚ました忍人は仕事部屋へと戻った。
すると、忍人の署名や決裁が必要なものは卓子に分類して積まれ、それ以外の竹簡はほぼ綺麗に片付けられている。
「さすがに、処理が早いな」
忍人は今更ながらに柊の事務処理能力の高さに感嘆した。
師をして、大臣10人居るよりいくぶんマシ、と言わしめる柊は、並みの大臣よりも遙かに先を見据えた判断と指示で効率を上げていることもあるが、何よりも文字の読み書きが早いのだ。報告書などの類は、他の者とは比べ物にならない程の速さで読み進み、一読しただけで全てを理解し記憶して、必要に応じて流れるように返書をしたためてしまう。
そして忍人が署名をしている傍で、柊は今日までに上がって来ていた報告書とそれへの返書について要点を纏めて口述していく。返書の内容に、忍人の意に反するものはなかった。どれも、忍人ならばそう指示するだろうという内容である。
「いつもそのくらい真面目に働いてくれれば助かるんだがな」
忍人がそう零すと、柊はしれっとして言ってのける。
「嫌ですよ、そんな面倒なこと…。第一、私がいつも真面目に働いたりしたら、人手不足解消の域を超えて、失業者が大量に出ますよ」
それはそれで困る。それに、たまにでも柊が真面目に働くと、そこの処理が早く済む代わりに各地に被害が発生するのだ。先程も、ここへ戻るまでの間に何度か「夢だ~幻だ~!」と叫んで走って行く者や青褪めて震えている者の姿を見かけた。
それを告げると、柊は不貞腐れたように応じた。
「失礼な人達ですね。私が働くのはそんなにおかしなことなんでしょうか?」
「普段の行いが悪過ぎる所為だろう」
忍人はそう言って笑うと、残っていた仕事をすべて片付けた。そして千尋が来るまでの間、感謝の意を込めて柊の他愛ないお喋りに付き合ってやったのだった。

執務を終えて忍人の元へやって来た千尋は、柊と仲良く話し込んでいる忍人を見て驚いた。
「珍しいですね、忍人さんが風早抜きで柊相手に普通に喋ってるなんて…」
「たまには、そういうこともある」
理由を聞かれると些か体裁が悪いので、忍人はそう言って誤魔化した。
「たまには柊が真面目に働くのと同じようなものですか?」
「風早まで何ですか、失礼な……と言っても、今回はそれと無関係ではありませんけどね」
忍人が些細なことでは怒らずに大人しく会話に応じていたのは、柊に助けてもらったという負い目があるからだ。そのことは、風早にも見て取れる。
「う~ん、忍人は寝不足が続いてましたから……やっぱり仕事の能率が下がってたんですね」
「風早……その話は…」
忍人は慌てて押し止めたが、時既に遅し。千尋と柊が目を向いた。
「えっ、忍人さん、ずっと寝不足だったんですか!?」
「もしや、それは我が君と、その…」
柊が何を想像したのかを察して、風早が笑いながら説明する。
「はは…別に艶っぽい理由じゃないんですよ。忍人は、そういうことは公休日前夜のみと決めてますし、それで悶々として眠れない訳でもありません。ただ、千尋の寝相が悪過ぎるだけなんです。毎晩、そりゃもう殴る蹴る圧し掛かるの連続ですよ」
敵と柊の気配には敏感な忍人でも、千尋の手足が当たる前に目覚めて避けることは出来ず、先日などは不覚にも寝台から転げ落ちてしまった。半端な高さから落ちて、しかも蹴られて初めて目を覚ましたのでは満足な受け身を取ることも適わず、物音に気付いた風早が駆け付けた時には、かなり跋の悪そうな顔をしていた。
毎夜、衝撃を感じては目を覚まし、千尋の身体を反対の端まで寄せたり空いてる側に自分が回り込んだりして来たのだが、広い寝台の上を千尋は所狭しと転げ回っていた。しかし、忍人を蹴り落としても本人は決して落ちることはなく、朝には綺麗に元の位置に戻っているのだ。おかげで千尋は、己の所業に全く気付いていなかった。
「……知らなかった。どうして早く言ってくれなかったの?」
「緊張や疲れが解れれば大人しくなるし、言えば千尋が気にしてもっと酷くなるだろうと思って黙ってたんです。忍人からも口止めされてましたしね。でも、柊の手を借りるようでは、さすがに忍人もそろそろ限界でしょう。だから、言っちゃいました。すみませんね」
悪びれることもなくあっさり言い明かした風早に、忍人は今更取り繕うことも出来ずに全てを認めた。確かに、風早の言う通り限界だった。柊から「深刻な事態」と言われてしまったのも無理はない。
だが、寝台を分けるのが一番だと誰もが解ってはいるものの、世継ぎの居ない女王と王婿ではそれは出来ない。
「それでね、柊……聞いてしまったからには、何か良い解決策を考えてくれませんか?」
こういうところは抜け目のない風早だった。千尋の恥を聞き逃げするなど許さない。これぞ柊の正しい使い方とばかりに押し迫る。
「うん、柊なら、何とか出来るよね?」
期待に満ちた笑顔で千尋にそう言われては、柊も何とかしない訳にはいかない。更に、忍人の方を見遣ると、期待しているのか困惑する柊の様子を面白がっているのか、表情が全く読めない、何かを推し量るような様子でジ~ッと柊を見つめている。
2つの笑顔と1つの強い視線を一身に受けて、柊は懸命に知恵を絞った。
その結果、忍人も千尋も安眠出来る夜を手に入れたのだった。

-了-

《あとがき》

千尋の寝相が悪い所為で寝不足の忍人さん。
その陰で、柊は大活躍です。とは言え、たまには苦労もしてもらわないと……。
柊が知恵を絞った結果、忍人さんは身の安全を手に入れ、千尋は緊張が解れて寝相がマシになって、めでたしめでたし(^_^;)

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