市へ行こう
「ちょっと相談があるんですけど…」
    軍務の報告を終えて執務室を後にしようとした忍人を、千尋はそう言って呼び止めた。
    「それは、職務上のことでしょうか?」
    「えぇっと、私的なことなんですけど……出来れば早い方がいいかなって思うので、お仕事はちょっと休憩でお願いします」
    何やら訳ありな様子で、一応普段よりも立場を弁えた物言いの千尋に、忍人も仕方なさそうに応じる。
    「解った。言ってみろ」
    忍人からの許しを得て、千尋はパァッと顔を輝かせた。
    「明日のお休みに、市に行きたいんです。一緒に行ってくれませんか?」
    「市……と言うのは、今、宮の外に立っている大市のことか?」
    千尋の施政が軌道に乗り始めて、近隣の邑はかなり活気を取り戻した。生活するだけで手一杯と言う状況から解放されて、物資の流通なども円滑になり、行商人たちもやって来るようになった。
    そして、今、宮の外では普段よりも盛大な市が開かれている。並ぶ店や商品の種類も数も桁違いで、民の生活水準の向上が見受けられるとの報告が上がっていた。それに伴い、治安を守る為に軍が警戒体制を強化する必要もあって、こうして忍人が女王の執務室を訪れたのである。
    「ダメ…ですか?」
    困ったような顔で何やら真剣に考え込んでいる忍人を見て、千尋は不安になる。女王がそんなところへ行くなど軽率だとか、行くなら厳戒体制でとか言われてしまうのではないかとビクビクする。
    「行くにしても、どうやって正体を隠したものか…。顔は知れてなくても、その髪では、誰の目にも君が女王であることは明らかだ」
    「えっ、行って良いんですか?」
    思わぬ答えが返って来て、千尋は驚いた。忍人が考え込んでいたのは、千尋をどうやって思い留まらせるかでも女王をどうやって守るかでもなく、千尋の正体の隠し方だったらしいと知って更に驚く。
    「どうせ止めても聞かないだろうし、君はお忍びで行きたいのだろう?下手な格好で勝手に抜け出されるくらいなら、最初から準備万端整えて俺が一緒に行った方が遙かに安心出来る」
    諦めとも言える忍人の返答に、千尋はちょっと首を竦めて見せた。
千尋の要望に応えるための良案が思い浮かばなかった忍人は、背に腹は代えられぬとばかりに柊の元を訪れた。
    「我が君の御為とあらば、いくらでも知恵も力もお貸ししますが……あなたとの逢引の為となると些か抵抗を感じますね」
    「逢引などではない。お忍びでの視察とその護衛だ」
    忍人の答えに、柊は盛大に溜息を付いて見せる。
    「だからあなたは鈍感の朴念仁だと言うのです。わざわざ休みの日に二人きりで出掛けたいと言うのが、逢引の誘いでなくて何だと言うのですか。ただのお忍びの視察なら、他の日に予定を遣り繰りして行けば済む話です」
    「そうなのか?」
    忍人は、執務が滞らないように千尋が休みの日を選んだのだとばかり思っていた。
    「……策を授ける前にあなたを苛め倒したくなって来ました」
    「本当に良策を授けてくれるなら、気の済むようにしてくれて構わないが…」
    忍人は、柊に助力を求めると決めた時から、何某かの嫌がらせをされることは覚悟していた。
      しかし、呆れて意地悪な気持ちが沸き起こっていた柊も、そうサラリと応じられると苛める気が失せて来る。柊の天邪鬼な性格を突く為の作戦なら言質を取ったとばかりに本当に苛め倒すところだが、忍人が本気で言っているのだと解るだけにそんな気にはなれない。
      「解りました。幻惑を応用して、あなた方の容姿に目晦ましをかけましょう。不測の事態にも、こちらで備えておきます」
      髪の色だけでなく、忍人の正体が知れても千尋の正体が露見する可能性がある。ならば、まとめて正体を隠してやれ、と柊は手の掛かる主と弟弟子に全面協力を約した。
      「感謝する。よろしく頼む」
    脱力しながら請け負う柊に、忍人は真面目に言い置いて仕事に戻って行った。
「わぁ~、お店がいっぱいですね。想像以上の賑わいです」
      「どこでも君の好きな店で好きなだけ品物を見て良いから、くれぐれも俺の傍を離れないでくれ」
      「は~い」
      千尋は嬉しそうに返事をすると、手を差し出した。
      「何だ?」
      「こんなに賑わってると人波に飲まれて逸れちゃいそうですから、手を繋いで行きましょう」
      千尋の誘いに、忍人は人前で手を繋ぐことへの抵抗と千尋の安全を天秤にかけた。程なく後者が勝ち、忍人は差し出された手を取る。
      「うふふ…何だか、デートみたい」
      「でえと?」
      耳慣れぬ言葉に忍人が訊き返すと、千尋はあっさりとこう答える。
      「逢引のことです」
      一気に忍人は赤面したが、それでも千尋の手は離さなかった。そして千尋に手を引かれるまま、あちこちの店を回り、時に意見も聞かれながら買い物に付き合った。
      そんな2人の姿を、それぞれ互いにも内緒で遁甲して後を付けていた風早と柊は、歯噛みしながらずっと見守り続けたのだった。
-了-

