何もない日

夕餉に付き合った忍人がそろそろ千尋が休む時間だと席を立った時、千尋はその表情が優れないことに気付いた。
「忍人さん、どうかしたんですか?」
「いや、どうもしない」
そう答えたものの、忍人はよく解らないもやもやした気持ちが沸き起こっているのを密かに感じていた。
「どこか、具合が悪いとか…?」
「いや、どこも悪くないが…」
強いて言うなら、何となく気分が優れないと言ったところである。
「何かあったんですか?」
千尋に問われて、何かあっただろうか、と忍人は今日一日を振り返ってみた。

朝の目覚めはすこぶる良かった。
朝餉の前に鍛錬を行い、爽やかで心地よい一日が始まった。
仕事も順調だった。
兵達の訓練では皆必死に忍人の指導に喰らい付いて来たし、机仕事でも特に大きな問題の報告や申請は上がっておらず、訪れた者達の口頭での報告や相談も整然としたもので全て潤滑に事が進んだ。
それ以外ではどうだっただろうか、と忍人は記憶を辿ってみる。
先日からまた橿原宮に戻って来て、好き勝手に宮内をうろちょろしている柊も、今日は何故か大人しく、何の問題も起こさなかった。
そして、千尋も勝手に一人歩きすることなく、真面目に執務に励んでいた。

「何もなかったな」
そう、何もなかったのだ。
今日一日、忍人が手を焼くようなことは何も起きなかった。
あまりにも平穏過ぎる一日だった。
すると、横で見ていた風早が何か思いついたようにポンッと手を打った。
「もしかして忍人は、何も起きなかったことが反って不安に思えてならないんじゃありませんか?」
「……成程」
長い戦が終わると前線から戻って来た兵士が平和に馴染めずに精神を病む、と言う話は聞いたことがある。忍人にはそのようなことはなかったが、それと似たようなものなのだろう。
納得がいったように、忍人は言葉を零した。
「確かに、千尋も柊も何の問題も起こさないなど……そんな日は、千尋と出会って此の方一日としてありはしなかったからな」
「何か、物凄く失礼なことをサラッと言われたような気がするんですけど…」
それは千尋の気の所為ではなかったのだが、風早は笑って聞き流したのだった。

-了-

《あとがき》

日頃、千尋と柊に振り回され過ぎて、平穏な一日に違和感を感じてしまう忍人さん。
幼い二ノ姫とは面識あったと思いますが、”千尋”と出会ったのはあの国見砦の水辺の遭遇ってことで……それ以来、忍人さんはずっと千尋達に振り回されて来たものと思われます(^_^;)q

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