衣替え

「忍人さん、いつも黒尽くめで暑くありませんか?」
千尋からの唐突な質問に、忍人は面食らった。
「これは黒ではなく、濃藍なのだが…」
「パッと見、黒っぽいことに変わりありません。そんな格好で炎天下で兵達に訓練付けたりしてて暑くはないんですか?」
忍人は、そんなことは考えたこともなかった。炎天下が暑いのは当たり前のことだし、そんなことくらいでとやかく言っていては軍人など務まらない。
服装についても、自分が着ているのは軍の規定に沿った戦闘服だ。前線では勿論のこと、平和になってからもこれが何着かあれば充分なので、他の私服など持っていない。元々着飾るのは好きではないし、外では常に戦えるよう準備を怠るべきではないのでこれが一番なのだ。
「君は、何が言いたいんだ?」
「私は暑いんです。姫装束はいっぱい重ね着してるし、袖も裾も長いし……だから、忍人さんはどうなのかなって…。いっそのこと、二人でもっと涼し気な色とか薄着とかに衣替えしませんか?」
衣替えしませんか、と言われても、忍人はどうしていいのか解らなかった。とりあえず、姫装束は見た目が同じでもう少し目の粗い風通しの良いものを仕立てさせることを考えても良いだろうが、自分の方はこの色も生地の厚さも意味があるのだ。あんまり薄くては汚れや返り血が目立つし、防御力も減少してしまう。
「俺はこのままで良い。だが、君の方は検討してみよう。色や形は変えられなくても、生地くらいは何とかなるだろう。道臣なら君の希望に合うような生地を入手出来るだろうし、いざとなれば柊の手を借りれば君の衣装を何着か仕立てるくらいの予算を捻出するのは容易いことだ」
本音を言えば、柊の手は借りずに済ませたい。
「あぅ~、やっぱり予算とかの話にもなっちゃうんですね」
「当然だろう。その装束を一揃い仕立てるのに、どれだけ掛かると思っているんだ。高価な生地を贅沢に使って、幾人もの職人が精魂込めて染めたり縫ったりするんだぞ」
予算だけではなく、時間も掛かる。少なくとも、この夏はどんなに暑くても今あるものに身を包むしかない。
「だったら、夏物の姫装束は今後の課題として、私服の方を何とかしましょう。私服は私が自由に作って良いんですよね?」
「否、君の場合は私生活に掛かる費用も全て国庫から出る。必要なものは随時取り寄せることが出来るが、自由に買い物など出来ないな。既存の物の代替品は一言で済むが、新たに何か手に入れようとしたら、衣1枚簪1つでも御用達の商人等を呼んでの大騒ぎだ。密かに遣いを頼もうにも、そもそも私財が無いに等しい。女王に俸禄などないだろう?」
そうだった、と千尋は今更ながらに思う。周りに溢れんばかりにある物は全て千尋の私物ではない。考えてみれば、私物と言えるのは向こうの世界から持ってきた物くらいだった。しかも、それらはここでは需要のないものばかりなので換金出来ない。
「ふぇ~ん、姫とか女王なんて窮屈なばっかりで何にも良いことないよ~」
千尋は卓子に突っ伏した。すると、忍人が寂し気に呟く。
「…俺と出会ってこうして結ばれたことは、君にとっては良いことには入らないのか」
「えっ!?」
驚いて千尋が顔を上げると、忍人は千尋を見つめて言い募る。
「君が生き残りの姫でなければ俺達は出会うこともなかっただろうし、女王にならなければ円満に結婚することなど出来なかったと思うのだがな」

もしも千尋がただの邑娘だったら、出会えたとしてもその真価を見抜く前に別れていただろう。例え恋に落ちたとしても、葛城の総領息子と邑娘では結婚など認められない。側女として傍に住まうことすら許されない。駆落ちか唯のお手付きか…。
千尋が生き残りの姫だったから忍人は国見砦で出会いずっと行動を共にし、相手が女王だったから千尋を生涯唯一人の妻とすることが出来たのだ。

「…そんな言い方、狡いです。真顔でそんなこと言われたら、私も姫とか女王で良かったって思っちゃうじゃないですか?」
千尋は耳まで真っ赤になって目を潤ませながら、忍人を恨めしそうに睨み付けた。
忍人がしばらくその非難するような視線を受け止めていると、千尋はまた卓子に顎を乗せてぼやく。
「でもでも~、普段着くらい好きにしたかったよ~」
すると、千尋の耳に忍人の笑い声が聞こえて来る。
「ど、どうしたんですか、忍人さん!?」
「すまない。少しばかり戯れが過ぎたようだ」
珍しく軽く喉を鳴らして楽しげに笑う忍人に、千尋はからかわれたのかと思い眉根を寄せる。
「だが、嘘は言っていない。本当に、君は自由に買い物など出来ない。そして俺は、君と出会えたことに感謝してるし、今の立場にも満足しているんだ」
「だったら、何で笑ってるんですか?」
千尋が不満そうに問うと、忍人は笑い止んで答えた。
「確かに君には私財が殆ど無いが、俺は違う。軍からかなりの碌が出ているし、珠玉の持ち合わせもある。俺は……妻に衣の一枚も買ってやれないような甲斐性なしではないつもりだ」
千尋は驚いて跳ね起きた。
「今まで贈り物一つしなくて悪かった。君が何を欲しがっているのか解らなかったんだ。小さな珠玉を幾つか贈れば、それで君が好きなものを買えるようになるのは解っていたのだが、脱走されては厄介だからな」
「脱走なんて、そんなこと……しちゃうかも知れません」
乗り出して文句を言いかけ、それから千尋は忍人の言い分を認めて申し訳なさそうに座り直した。確かに自分が自由になる金を持っていたら、誰かに遣いを頼むのではなく自分で買いに行くだろう。
すると、忍人は少しばかり照れながら告げた。
「君が何か欲しがっても、俺には察することなど出来そうもないから……欲しいものがあったら遠慮などせずに、はっきり言ってくれ。出来るだけ希望に沿えるようにしたいと思っている。君が一人で買い物に行くのは認められないが、俺が一緒に買いに行くことなら出来るかも知れない」
千尋は女王らしからぬ振る舞いで忍人に迷惑をかけるのは気にしないくせに、私生活では「あれが欲しい」「あそこへ連れてって」と言うのは我が儘だと思っているのか、その類のことはなかなか口にしない。だが忍人にとっては、寧ろ逆の方が有り難いのだ。
そこで千尋は早速忍人に夏服をリクエストしたのだった。

千尋は生地に関する要望を細かく説明し、色については幾つかの目安を伝え、それらは忍人にあっさりと了承された。
しかし形だけは、簡単には認められなかった。
「裾も袖も短過ぎる。暑いからと言って、そんなに肌を露わにするなど……君には恥じらいというものがないのか?」
「でも、裾は旅の間に来てたのと同じか少し長いくらいですよ」
「あの頃は、丈の長い上着を羽織っていただろう」
千尋が最初に希望したのは、ノースリーブのチュニックワンピース。襟ぐりが大きくて開いており肩から先が剥き出しになる、布が少なく肌の露出が多い代物だった。これはさすがに、忍人としても希望に沿う訳にはいかなかった。恥じらい云々以前に、千尋の肌をそんな惜しげもなく他の男の目に曝したくなどない。
互いに譲歩しあった結果、椅子に腰かけても余裕を持って膝が隠れる丈の七分袖の貫頭衣で折り合いが付いた。
そうして仕上がったものは大層千尋のお気に召した。そのあまりの喜び様に忍人は細部を変えて更に何着か急ぎ仕立てさせ、千尋は夏の私服に不自由しなくなったのだった。

-了-

《あとがき》

千尋が夏服を欲しがるお話。
女王様のお買いものはいろいろと大変なのです。勝手に出歩かれては困るので、自由になる金なんか与えてもらえません。
そもそも私物と言えるのは、親しい人から個人的に贈られる物くらいでしょう。多分、一ノ姫の私物は羽張彦から貰ったものだけで、千尋の私物は向こうの世界から持って来た物と風早達から貰えるものだけ。
欲しい物があったら、風早か柊に言えばすぐに用意してくれそうだけど……それでは忍人さんの立つ瀬がないので、忍人さんに買ってもらって欲しいです。

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