酒の落とし穴

日が落ち始めた頃、軍部にある忍人の仕事部屋に千尋がやって来た。
そこまでは良くあることだった。結婚して以来、千尋は堂々と忍人の元を訪れるようになり、自分の執務が終わっても真っ直ぐに自室へ帰らずに机仕事をしている忍人の傍で楽しそうにその姿を眺めていることも珍しくはない。それは、傍に居たいという気持ちは勿論のこと、忍人が夜遅くまで残業しないように圧力を掛ける意味合いも含んでいる。
しかし、この日はいつもと勝手が違っていた。千尋に続いて入室したのが、兄弟子達の何れかではなく、岩長姫だったのだ。
「師君!?」
その姿を見て腰を浮かせた忍人は、出来ることなら窓から飛び出してそのまま遁走したいという衝動に駆られた。
千尋と連れ立って師がやって来るなど、碌な用件ではないという気がする。そして、その予感は的中した。
「忍人、あんたもたまには宴に参加しな」
「謹んで欠席させていただきます」
聞き慣れた師の誘いに、忍人は即答した。
ここまではいつもことだ。これまでも忍人は、仕事や千尋との約束を楯に誘いを断って来た。しかし、この場に千尋が居るが為に、いつものようには済まなかった。
「そんなこと言わずに、たまには参加しても良いんじゃないですか?」
案の定、千尋は忍人をそう促す。
「千尋…師君に何を吹き込まれたか知らないが、良い様に利用されるな」
「おや、人聞きの悪いことをお言いだね」
忍人の反応に千尋が首を捻っている横で、岩長姫は不敵な笑みを浮かべて文句を言う。しかし、構わずに忍人は千尋に言い募った。
「何と言って丸め込まれたか知らないが、師君の酒宴に顔など出したら、俺は明日の朝になっても部屋には戻れないぞ。それでも君は、参加して欲しいのか?」
「うぅ~ん、それは嫌です。あっ、でも、それなら私も一緒に…」
「駄目だ!君は以前、興味本位で師君からの盃を受けて一口飲んだだけで目を回しただろう。例え飲まなくても、あのような場に居たら匂いだけで倒れるに決まっている」
岩長姫の酒宴で消費される酒の量は半端ではない。それだけの酒とそれを飲んだ人々に囲まれて、千尋が平気で居られるとは思えない忍人だった。
「解ったら、師君の言葉に乗せられるのはやめるんだ。もうじき夕餉の時間だろう。俺もすぐに仕事を終わらせるから、あと少しだけ待っていてくれ」
どうにか千尋を説き伏せた、と思った忍人だったが、師はそんなに甘くはなかった。
「ふん、そう心配しなくても、ちょいと付き合えば早々に解放してやるよ。そうさね、あたしら4人から一杯ずつ受ければ、これまでの不義理は帳消しにしてやろうじゃないか。だから、夕餉の後に顔出しな」
「えっ、そうなの?だったら、やっぱり行った方が良いんじゃないかなぁ。そういうお付き合いって大切だと思うし…」
こうして千尋は岩長姫の口車に乗せられてしまい、忍人は嫌々ながらも酒宴に顔を出すことになってしまったのだった。

「遅いなぁ、忍人さん」
嫌がる忍人を送り出してからかなりの時間が経過したが、一向に戻ってくる気配はなかった。待つ身には僅かな時間も長く感じられるのかと思っていたが、どうも千尋の時間だけが長い訳ではないらしく、いつまでも明かりが灯ったままの部屋の様子に、見張りの兵が外から心配そうに声を掛ける。
「陛下、もうお休みになられては如何ですか?」
確かに随分と遅い時間になっていたし、忍人からも言われていた。
「柊が居る以上、どんな罠が仕掛けられているか解らない。遅くなるようなら、先に休んでいてくれ」
まるで、こうなることを予期していたかのようだった。だが、嫌がる忍人を強引に酒宴に赴かせた千尋としては、そう簡単に自分だけ先に休む訳にはいかない。
「やっぱり、何か罠に引っ掛かったのかなぁ」
罠に掛かったのが千尋なのか忍人なのかは定かではないが、どうやら早々に解放してはもらえなかったらしい。岩長姫の酒宴はそんなに甘いものではないと、事ここに至ってようやく気付いた千尋だった。

一方、千尋が丸め込まれた為に渋々参加した忍人は、やはり簡単には解放されないらしいと早々に気付いていた。
珍しく酒宴に顔を出した忍人の目の前に置かれたのは、他の者達が手にしているぐい飲みではなく、風早特製の大きな丼鉢だったのだ。これを焼き上げる日数を考えれば、師のあの言葉が前々から周到に準備されたものだと理解するのは容易なことだった。恐らく企んだのは柊だろう。勿論、知ってて隠し通した風早も同罪だったが、そこには何やら取引があったらしいことが見て取れる。どうやら風早は、この企てに協力する代わりに師から酒を注がれることを免除されたらしい。弱いのに毎度のように参加させられて、毎回酔い潰されている身としては、それは魅力的な条件だったことだろう。
しかし、丼の口いっぱいまで零れそうなほどに注がれた酒を飲み干すのは重いし多いしでかなりきつかった。しかも傍らには、忍人と千尋の話を肴に酒を飲む者が居る。
「しばらく留守にしてみれば、その間に何やら忍人が夕餉までには仕事を切り上げていそいそと帰って行くようになったとか…。女王と夜を過ごすのが王婿の務めとは言え、結婚するとそこまで人が変わるのでしょうか?」
「…うるさい」
からかうように言う柊を押しやって、忍人は丼の中の酒を減らすことに尽力した。すると、風早が代わりに解説してくれる。
「はは…、忍人は夫婦喧嘩に負けたんですよ」
「おや、夫婦喧嘩とは……一体、忍人は何をして、そのように姫を怒らせたのですか?」
風早がそれを狙ったのかは定かではないが、柊はその話に喰い付き、忍人から離れた。
「ええ、実は、忍人は結婚しても仕事にかまけて、いつも帰りが遅くって……それで千尋が文句を言ったんです」
すると、文句を言われた忍人は、仕事を疎かにするべきではない、と逆に千尋に説教した。そこから言い争いになった末、千尋が泣きながら叫んだのだ。
「一緒に御飯を食べたいって言うのは、我が儘なんですか!?本当に急ぎの仕事なら我慢しますけど、毎日毎日……この国はそんなに危ういんですか!?」
泣いて訴える千尋に、忍人は「その通りだ」とは答えられなかった。実際、中つ国は、大将軍が奔走しなければならない程の緊急事態など生じてはいない。忍人の仕事の量は、自分でやった方が早くて確実だとか自分の目で確かめないと気が済まないなどの理由で膨れ上がっていることは否定出来ない。他の者を信用してないと言われてしまえば、それまでだ。帰りが遅くなる原因も、急ぎの仕事があるのではなく、明日でもいいことも今日やってしまおうとする忍人の性格に依るところが大きい。
何よりも、千尋に泣かれたのは堪えた。それは反則だろうと思いながらも、忍人は負けを認めざるを得なかった。
それ以来、忍人は毎朝晩、千尋と共に食事をとることとなった。千尋を泣き止ませる為にあれこれ言っている内に、橿原宮に居る限り共に食事をすることを約束させられてしまったのだ。
約束は守らねばならない。
おかげで、つい仕事に夢中になって夕餉の刻限になってしまった時などは、走り出すのを必死に堪えている様子で、とんでもない速さで歩いて行く『葛城将軍』の姿が各部で目撃される事態となるのである。焦る気持ちを露わにして走らないのは、大将軍が女王の元へ血相変えて走っていくと国の大事と間違われ兼ねないと言う、理性の働きの成せる業だった。
「ああ、それで”いそいそ”帰ると言う話になる訳ですね」
「ええ、そうです。千尋のおかげで、忍人の辞書に”一任”とか”先送り”という項目が増えました」
「さすがは、我が君です。忍人にそのような芸当を仕込むことなど道臣でも出来なかったものを、あっさり成し遂げてしまわれるとは…」
柊が面白そうにそして風早が嬉しそうに話し込んでいるのを横目で見ながら、忍人は懸命に酒を飲み干す。これで何とか師と柊に注がれた分は片付いた。
すると、微笑まし気に3人を見つめていた道臣が忍人の丼を酒で満たす。
「あなたまで、そんなに注がなくても…」
師と柊だけでなく、道臣までもが口いっぱいまで酒で満たすのを見て文句を言うと、道臣は申し訳なさそうに応える。
「すみません。師君の命令なのです」
「それで今までの不義理を帳消しにしてやろうって言ってんだよ。腹括って、しっかり飲みな」
そうして師に命じられるまま、忍人は残り2杯も飲み干して、やっと解放されたのだった。

外がざわついている様子に、前の間でうとうとしていた千尋はハッと目を覚ました。
「将軍、お足元が…」
「大丈夫だ」
心配そうな兵士の声に続いて忍人の声が聞こえ、程なく些か怪しい足取りで部屋に入って来る。
そして、出迎えた千尋に手を引かれるようにして寝所である奥の間へと入ったところで、忍人の気力は費えた。
「忍人さん!?」
傾いだ身体を咄嗟に支えようとした千尋だったが、共倒れになっただけに終わった。忍人が最後の一欠片の気力を振り絞ってくれたのか、千尋には幸い大した衝撃はなかったが、その身は完全に意識を失った忍人の下敷きになってしまう。
「う、動けない…」

それからどれだけの時間が経っただろうか。
忍人のことを心配して、風早がそっと様子を見に来た。道臣も柊も酔い潰れた為、酒宴から解放されたのだ。
眠りを妨げないようにと思ったのか、声も掛けずに気配を殺し足音を立てないようにこっそりと入って来る。元よりこの部屋への出入りが自由の風早には、部屋の前の見張りも何も言わない。
そして風早は、奥の間の入り口付近で千尋を押し倒しているかのように見える忍人を見て眉を顰める。続いて、助けを求めるような千尋の顔を見ると、容赦なく忍人を蹴り退けた。
「ぐっ…」
ゴロゴロと何度か転がって壁にぶつかった忍人は、そこで目を覚ました。痛む頭と身体に鞭打って上体を起こすと、目の前には氷の微笑を浮かべた風早の顔がある。
「…どうしたんだ、風早?何故、そんな顔をして…」
「あれについて、何か言い訳したいなら聞くだけは聞いてあげてもいいですよ」
そう言われて忍人が風早の示した方向を見ると、千尋が転がっている。身体が痺れて動けないのだ。今触れられると辛い為、助け起こそうとした風早の手を千尋が拒んだので、そのままの状態で痺れが取れるのを待っているのである。しかし、そんな事とは知らない忍人は、千尋に何事か起きたものと慌てふためく。
「大丈夫か、千尋!一体、何があったんだ!?」
這い寄ろうとした忍人を、しかし風早が押さえ込んで逃がさない。
「しらばっくれるんじゃありませんよ。あんなところで千尋を押し倒して…一体、どういうつもりなんですか?」
「えっ、俺が何をしたと…?」
組み伏せられた忍人は、首を反らすようにして背に乗る風早に問いかける。
「そりゃあ、あなたは千尋の夫ですから…千尋と睦み合うことを咎めはしませんよ。でも、場所は弁えてもらえませんか?嫌がる千尋に無理強いするのも許せませんねぇ」
「いや、俺は別に…」
「ち、違うから…。誤解だよ、風早!」
身体が動かないので忍人達の姿は見えなかったが、何やら不穏な空気だけは千尋にも伝わっていた。忍人の言葉と、所々だが声を押さえた風早の言葉も聞こえる。その中で、忍人にとっては運の良いことに、風早の「押し倒して」と言う言葉が千尋の耳に届いていた。
「私はただ、倒れた忍人さんの下敷きになっただけだから…。今も、痺れて動けないだけだから…」
「…そうなんですか?」
そう問われても、忍人には記憶がないので返事が出来ない。その為、風早に更に片腕を捻り上げられ、忍人は反対の手で激しく床を叩く。2人の姿が見えない千尋は、その音を恐ろしく感じた。
「千尋…無理して忍人を庇わなくてもいいんですよ」
「庇ってる訳じゃないよ。本当に、ただそれだけのことなの。だって……時間差を考えてみてよ、風早」
必死に言い募る千尋に、忍人が解放されてから自分がここへ来るまでの時間差を考えて、やっと風早は納得して忍人の拘束を解いた。解放された忍人は、その場でぐったりとする。
そんな2人に、風早はせめてもの心遣いとして掛布を掛けると出て行った。助けを拒む千尋を床の上に残して、忍人だけを寝台へ運んでやるほど風早の心は広くなかったのである。また忍人自身も、千尋を床で寝かせて自分だけ寝台で休む気など毛頭なかった。
そして、翌朝まで忍人共々床に寝ることになった千尋は、忍人の口から仕掛けられた罠と風早の暴走の全容を知り、もう2度と忍人を無理矢理酒宴に参加させようなどとはしなくなったのであった。

-了-

《あとがき》

忍人さんってお酒は結構強そうだけど、酒盛りは嫌ってそうだと思いました。
でも、あの岩長姫が、いつまでも見逃してくれるとも思えないし…(^_^;)
そこで、千尋を利用して弟子全員集合の酒盛りを決行。 酒の肴に、初の夫婦喧嘩の話も盛り込んでみました。

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