お見舞い戦線

「あなたが悠長に風邪をひいていられるなど、平和とは何と素晴らしいものなのでしょう」
「何をしに来た」
「勿論、お見舞いですよ。ほら、このように見舞いの品も持参いたしました」
そう言うと、柊は野いちごの入った籠を掲げて見せる。
「要らん」
「好き嫌いはいけませんね。風邪には果物が効くんですよ」
柊が忍人に押し付けるように籠を差し出すと、枕元に居た遠夜がそれをじっと見つめていた。
「あなたも食べますか?」
柊に勧められて、遠夜はそっと一粒摘み上げると、口に放り込んだ。
「よく熟している…」
じっくり確かめるように口の中で転がしてから飲み込むと、遠夜はまた籠に手を伸ばした。
「俺は要らないから、気に入ったなら全部食べてくれ」
その方が清々すると思った忍人だったが、遠夜の手は野いちごを忍人の口の前に持っていく。
「食べて…」
その状態でしばし時が止まった。忍人は目の前の野いちごを睨み付け、遠夜は縋るような目で忍人を見つめ、柊は面白そうに様子を眺める。
「食べて欲しいみたいですよ、忍人」
「言われなくても解っている」
それは解っているが、食べたくないので忍人はそっぽを向いた。
すると、唇の端に野いちごが押し付けられる。
「食べて…」
野いちごはその状態で完全に固定された。
しばらくその状態が続いてから、忍人は少しだけ向き直って遠夜の顔を窺うと、そろそろと口を開けた。
「食べた…」
遠夜は満足そうに微笑んだ。柊の目には、その様子はまるで、拾って来た野良犬が初めて自分の手から餌を食べた、とでも言った風に見える。
忍人が苦い思い出と口の中に広がる甘酸っぱさを我慢しながらやっと飲み込むと、遠夜はまた籠から一粒取り上げて忍人の口に運ぶ。
そこでまた互いの表情と視線による攻防が成され、しばらくして忍人が敗北した。
そうして忍人は籠いっぱいの野いちごを全て食べさせられたのだった。

「遠夜は最強ですね。あなたにあんなに沢山の野いちごを食べさせることなど、我が君でも困難なのではありませんか?」
柊に言われて、忍人は口直しの水を貰いながら頷いて見せた。
千尋も多少は粘るが、強く拒めば割とあっさり引き下がってくれる。その時は少し悲しそうな顔をするが、すぐに立ち直ってまた別のことで笑顔を浮かべるのだ。
しかし、遠夜は一歩も引かない。そうして捨て犬のような目で見つめられると、どうにも逆らい難い。おまけに言葉が通じない所為か、そんな目でじっと見られ続けていると、自分が苛めているかのような罪悪感に囚われる。
「気分が悪い。寝る。とっとと出て行け」
一気にかなりの量を食べさせられて、忍人は吐きそうだった。風邪の症状も加わって、今は柊とこれ以上言い争う気力はない。
「あなたは寝てても構いませんけど、遠夜が戻って来るまで私はここに居なければなりません。我が君から、臥せっている忍人を決して一人にしないようにと常々言い遣っておりますし、先程遠夜にもそう頼まれた気がします」
言葉は通じなくても、何となくそう思う。旅の中でもそうだったが、その勘はどうも外れることがないらしい。今も、柊に後を頼んで遠夜は薬の材料を採りに行ったようだ。多分、当分は戻ってこないだろう。
「千尋は、目を離すと俺がこっそり抜け出して鍛錬に行くと思っているんだ。さすがにこんな状態では、そんなことはしないと言っているのだが…」
「信じていただけないのは、あなたの自業自得でしょう。そう言っておいて実際には何度も抜け出したりするから、こうして見張られる羽目になるのですよ」
「おかげで、夜は拷問のようだ」
忍人は仰向けになって、掛布を目元まで引き上げると溜息交じりにこう零した。
「徹夜で見張っている風早が煩くて堪らない」

ここは風早の部屋である。
忍人の部屋は、千尋の部屋でもある。千尋が風邪をひいた時は、忍人が付き添っていた。感染るからと気にする千尋に、鍛え方が違うから平気だと言っていた忍人だったが、千尋が治った頃本当に感染ってしまって周りから呆れられた。そこで再び千尋に感染ってはいけないと、隣の風早の部屋に隔離されたのだ。
風早は、昼間は忍人の代わりに千尋の移動時の護衛を務め、千尋が執務室に篭っている間に眠り、夜は徹夜で忍人を見張っている。その際、遠夜のように黙って気配を殺して静かに見張っていてくれるならまだいいのだが、枕元で千尋との思い出話を語るのだ。ただでさえ見張られていては寝付けないと言うのに、あれでは全く休まらない。おかげで風邪はなかなか治らず、それどころか悪化する一方だ。
「それも風早の婿いびりの一つでしょうか」
普段は千尋の幸せの為に2人の仲を応援してくれている風早だが、時々理性の箍が外れるらしく、大切な姫を奪い取った忍人に意地悪をする。その気持ちは柊にもよく解るので、新婚当初は一緒にいろいろと婿いびりをしていた。
だが柊は、今では昔のように忍人で時々遊ぶ程度に戻っている。
「こうなると、さすがに、形振り構わず千尋に言いつけてやろうかと本気で考えたくなる」
「忍人…かなり追いつめられてますね」
そろそろこの辺りで手を引くように風早を説得した方がいいのでしょうか、と柊は思考を巡らせた。そうこうしている内に忍人がうとうとし始める。それを見て、柊は呟いた。
「これは確かに問題ですね。幾ら気配を抑えているとは言え、忍人が私の目の前で眠るなど、尋常ではありません。我が君の為にも、そろそろ何らかの手を打つ必要がありそうですね」

遠夜が戻って来るよりも早く、風早を伴って千尋がやって来た。
「忍人さん、ちゃんと寝てる?」
「はい、しっかり見張っておりましたので、ご心配には及びません」
千尋の声に、忍人は起き上る。弾みでまだ胃の中に居座っていた野いちごが逆流しかけたが、何とか堪えた。そこへ、何も知らない千尋が椀を差し出す。
「忍人さんの為に、これ作って来たんです」
椀の中身からは甘い香りがした。
「はちみつプリンです。卵と牛乳と蜂蜜だから栄養ありますよ。忍人さん、甘いもの苦手だから、ちゃんと蜂蜜は減らしてあります」
減らしてあってもかなり甘そうだった。
「あなたに早く元気になって欲しくて、千尋が一生懸命作ったんです。まさか、甘いから食べたくないなんて言いませんよね?」
「…有り難く頂こう」
例え風早に脅されなくても、断ることなど出来そうになかった。野いちごでお腹がいっぱいでも、胸が悪くなりそうなほど甘ったるい香りがしていても、これは食べるしかない。覚悟を決めて、忍人はプリンを一匙口に入れた。そして、あまりの甘さにグッと息を詰める。
「美味しくなかったですか?」
心配そうな顔をする千尋の前で、忍人は必死に口の中のものを飲み下した。
「これは…本当に蜂蜜を減らしてあるのか?」
それは、まるで蜂蜜をそのまま舐めているようだった。
すると、千尋の後ろで風早がニッタリと笑っている。その邪悪な微笑みを見た忍人と柊は、風早が千尋の目を盗んで大量の蜂蜜を追加投入したことが見て取れた。しかし、それをこの場で言うことは憚られる。風早が素直に認めるとは思えないし、千尋は自分の失敗だと思うだろう。
「私も御相伴させていただいてよろしいですか?」
見かねた柊が少しでも量を減らしてやろうと申し出たが、それも風早によって阻止される。
「千尋が忍人の為に作ったプリンを横取りしようだなんて、柊は意地悪ですね」
「そうだよ、柊。食べたかったら今度作ってあげるから、今日のところは我慢してね」
千尋にまで釘を刺されては、柊も手出しは出来ない。さて、どうしたものかと柊が思っていると、忍人は諦めたように淡々とプリンを口に運び始めた。そして、どうにか完食する。
これには、柊も同情を禁じ得なかった。空の器を持って千尋達が出て行ったのを見届けた後、口と胃の辺りを押さえて小刻みに身体を震わせている忍人に、そっと桶を差し出す。
「吐きたかったら遠慮なくどうぞ。遠夜が戻って来たら、腹痛と胸やけの薬も頼んであげますよ」
この時ばかりは、さすがに忍人も素直に柊の好意に甘えることにしたのだった。

-了-

《あとがき》

忍人さん風邪ひき話。
千尋と結婚して以来、風早の婿いびりに悩まされている忍人さんでありました。
間の悪い柊の見舞い品と遠夜最強伝説の前に、災難はいや増すばかり。遠夜は全然悪気ないんですけどね(^_^;)

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