朱痕

忍人と立ち話をしていた風早は、ふとその襟陰に目を留めた。
「どうかしたのか?」
何やら複雑な顔でジッと見ている風早に、忍人は何の焦りもない顔で問うた。その堂々とした様子に、風早は嘆息する。
「…いえ、あなたが気にしてないなら、構わないんですけどね」
忍人に思わせぶりな言葉を残して、風早はその場を立ち去り、執務を終えた千尋の元へと向かった。
そして、それがどんな結果を招くかも知らず、二人の為に良かれと思って忠告したのだ。
「その時は夢中で気遣う余裕なんて無いのかも知れませんが、出来ればキスマークはもう少し見えない場所に付けるようにしてあげてください。あれでは、『葛城将軍』の威厳が台無しですよ」

風早の忠告を受けて、千尋は照れるかと思いきや烈火のごとく怒りだした。
「キスマークってどういうこと!?」
「えっ?ですから、忍人のここに……普通に立っていればギリギリ襟で隠れますけど、出来ればもう少し外側に…」
話す内に、風早は千尋の様子がおかしいことに気がついた。
「えぇっと、もしかして千尋…身に覚えがないんですか?」
千尋は眉を吊り上げたまま頷いた。
「夢中で覚えがないとか、寝ぼけてたとかじゃなく…?」
「違うよ!今朝は、そんな痕付いてなかったもん」
今朝の目覚めはすこぶる良かったので、千尋ははっきりと覚えている。今朝の時点で、忍人の首や肩口には何の痕跡もなかった。
自信を持ってそう宣言すると、千尋は忍人が今時分居るであろう兵の訓練所へ向けて駆け出したのだった。

「忍人さん!」
物凄い勢いで駆けて来た千尋を見て、忍人はいつものように溜息を付いた。
職務中は役職で呼ぶように、宮内と言えど単独で行動しないように、忍人が何度注意しても時々こうやって一人で駆けてきて名前を呼ばわるのは兵達にも見慣れた光景だ。それは二人の関係が恋人から夫婦に変わっても全く変わらない。新兵以外は、またいつもの会話が繰り広げられるのだな、と思いながら手を休めないようにそっと様子を伺う。
しかし、この時はいつもと違っていた。忍人が口を開く前に、千尋は忍人の襟を掴んだかと思うとパッと手を離してくしゃっと顔を歪めたのだ。
「ちひ…?」
泣きそうな顔をされて、思わず忍人が名を呼ぼうとすると、言い終わらない内に辺りに小気味の良い音が鳴り響いた。
「忍人さんの莫迦!浮気者!」
千尋はそう叫んで、呆然と立ち尽くしている忍人に背を向けて、またもや物凄い勢いで駆け去った。
「あ、忍人…また来ます」
追いかけて来た風早も、すぐに千尋の後を追って駆け去り、忍人は訳が解らないまま兵達の指導を再開したのだった。

「また来ます」の言葉通り、しばらくすると風早が戻って来た。
「一体、どういうことなんだ?」
心底不思議そうな顔で忍人が問うと、風早はその襟首を締め上げた。
「正直に答えてください。この印は一体、誰に付けられたんですか?」
「印…?」
何を言われているのか解らないと言った風の忍人に、風早は今度は襟元を押し広げると、赤い印の付いているところに指を押し当てた。
「ここです。これ、口付の痕でしょう。一体どういうことなのか、俺に解るように説明してください」
「あっ…」
触れられて、忍人には嫌な記憶が蘇った。しかし、風早はその反応に怒りを募らせる。
「どうやら思い当たる節があるようですね」
「あるにはあるが…これは…その…」
その煮え切らない態度が火に油を注ぎ、風早は首を締めんばかりに再び忍人の襟を掴む。
「正直に答えなさい。いつ、どこで、誰に付けられたんですか!?」
「…昼前に……森で…」
真昼の情事か、と忍人を締め上げる風早の手に力が篭った。しかし、次の一言で一気に力が抜ける。
「……柊に…」
「…柊?」
殆ど吊り上げられた状態からパッと手を離されて、忍人はその場に尻餅をついた。そして恨めしそうな顔で立ち上がると、仕方なくその場で事の次第を語ったのだった。

昼前、少し空き時間が出来たので、忍人は森の奥で鍛錬に励んでいた。
すると、何者かが近寄る気配を感じた。誰何すると、木陰から柊が現れる。しかし、様子がおかしい。何やら足元がふらついて、今にも倒れそうな様子なのだ。
忍人が訝しんでいると、ふらふらと向かってきた柊の身体が傾いだ。
「なっ、何があったんだ!?まさか、賊が侵入して…?」
忍人が慌てて柊を抱き止めると、柊は縋り付くように忍人の服を強く掴んだ。それにより、襟元が引き開けられる。
そして柊は忍人の肩に顔を埋めるように倒れ込んで来た。
その次の瞬間、柊はクスッと笑うと忍人の肩口に口付けたのだった。
「引っかかりましたね、忍人」
硬直していた忍人は、その言葉を聞いて目の前が真っ暗になったのだった。

口元に手を当てて、頬に朱を走らせながら、目を逸らして忍人は告白する。
「実は…その後の記憶が飛んでるんだ」
どうやら忍人は、柊に騙された怒りと屈辱と口付けられた悍ましさで卒倒したらしい。
「気が付いたら、泉の畔で遠夜に介抱されていた」
目覚めた忍人を見て、遠夜は心配そうに肩口に手を伸ばして来たが、その時は意味が解らなかった。恐らく、遠夜はそこに痣のようなものを見て、痛まないかを問うていたのだろう。泉を覗き込んで、顔に落書きされてないかどうかは確かめたが、そちらに気を取られた所為かあるいはちょうど襟で隠れていたのか、肩に付いた痕には気付かなかった。
「特には異常を感じなかったから、多分それ以上の悪ふざけはされていない……と思いたいのだが…」
恐らく柊は、意識のない忍人をからかっても面白くないので、それ以上は何もしなかっただろう。
「えぇっと…それは大変でしたね。千尋には俺からちゃんと説明しておきますよ」
風早は脱力して、危なっかしい足取りで去って行く。
後に残された忍人は、また素知らぬ顔で兵達を指導しながら、その裏で柊への怒りを沸々と湧き上がらせていた。
おのれ柊、よくも大恥かかせてくれたな!
柊がどういうつもりでこんなことをしたのかは知らないが、その所為で忍人は大勢の兵達の面前で千尋に引っ叩かれ、風早に締め上げられ、あんな恥ずかしい話をする羽目になったのだ。今度会ったらただでは置かない、見つけ次第絶対にぶん殴る、と心に誓った忍人だが、勿論そんなことは承知している柊はとっくに橿原宮から姿を消していたのだった。

-了-

《あとがき》

忍人さんの浮気疑惑(^_^;)
柊は結構軽い気持ちで、ちょっとした悪ふざけのつもりだったものと思われます。夜、千尋に見つかって一悶着あるのを狙っただけかも知れませんが、風早の所為で大騒ぎに…。
尚、忍人さんは、柊に騙し討ちにされたのでなければ気絶しないと思います。何せ、気絶したらその方が危ないから……そこは返り討ちにするでしょう。

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