逆鱗

とある公休日、和気藹々と皆でお茶を飲んでいた時、千尋が突然言い出した。
「風早って、いつでもニコニコしてるよね」
「確かに、そうだね……もっとも、その笑顔の裏で何考えてるかは解らないし、千尋のこととなるとすぐ壊れるけど…」
すかさず同意しつつ那岐が付け加えた言葉に、柊も忍人も同感だとばかりに頷いた。当の風早はと言うと、那岐の言う通り感情の読めない笑顔を浮かべて見ている。
そんな風早を見ながら、千尋は続けて言う。
「でも、怒った顔見たことないし……もしかして、怒ったことなんてないんじゃない?」
途端に、柊は髪をかき上げながら視線を彷徨わせ、忍人は口元に手を当てて目を逸らす。
「あれ?どうしたの、二人とも…」
不思議そうな顔をしている千尋の横から、風早が意味深な笑みを浮かべて忍人を見ている。
「もしかして、二人は風早が怒ったところを見たことがあるの?」
この問いに、忍人は曖昧に頷いた。そして重ねて問われると、柊が観念したように答える。
「昔、忍人は何度も風早を怒らせて、その度に折檻されてましたが……その時も、風早は傍目には終始笑顔でした。おかげで、激怒するまで風早が怒っていることに誰も気付かず、気付いた時はもう手が付けられなくて…」
「…言うな。思い出したくない」
忍人は完全に俯くと、呻いた。
千尋は呆気にとられる、
「何か、凄く意外。柊なら風早の神経逆撫でするようなことも簡単に出来そうだけど、忍人さんが…?昔の忍人さんって、実はとんでもない悪ガキだったの?」
「いいえ、今と同様の堅物でしたよ。ただ、風早の逆鱗に触れるような発言が多かっただけです」
それだけで、那岐は大体の事情が掴めたような顔になったが、それでも興味深く柊の言葉に注目する。
「我が君もご存じの通り、忍人は自分にも他人にも厳しいですから、風早の前でも二ノ姫に対して厳しい意見を言ってしまうことがありまして…」
「千尋の悪口を言うな、って風早が怒り出したって訳か」
那岐の言葉に柊は頷いて見せた。そこで忍人は言い訳がましく言う。
「君を非難する気など一切なかったのだがな」
「まだそんなこと言いますか。千尋のことを卑屈だ何だと言っておいて、そんな言い訳が通用すると思ったら大間違いです」
「だから、あれは…あの頃の千尋はいつでも何処でも何かに怯えているようで、話す時も全く相手を見ようとしなかったから……もっと堂々と振舞って欲しいという意味で言ったことであって…」
再び風早の怒りに火が付きそうな雰囲気だったが、この場に千尋が居る限りそのようなことにはならなかった。
「忍人さんは私の為に言ってくれたんですよね。だったら、それって、悪口じゃなくて助言じゃないの。怒っちゃダメだよ、風早」
「千尋は本当にいい子ですね。さすがは、俺のお育てした姫様です」
風早の機嫌はあっさりと直ってしまう。こんな調子だから、あの旅の間も、千尋が忍人に何度叱責される姿を見ても風早が怒りだすことはなかったのだ。千尋の前ではいつでもご機嫌な笑顔が基本の風早であった。
風早の世界は千尋を中心に回っている。忍人に悪口を言われて壊れるのもまた然り。羽張彦がうっかり二ノ姫を泣かせた時に怒り出すことが無かったのは、羽張彦を責めるよりも千尋を慰めることを優先させたからに過ぎない。おかげで、風早を怒らせた回数では忍人の右に出る者は居なかった。

呆れ返っていた那岐が、ふと思い出したように問うた。
「ねぇ、何度もってことは、他にもあったってことだろ。あんた、他に何言ったんだよ?」
那岐の疑問ももっともだと、千尋も忍人に目をやったが、忍人は答えない。そこで千尋は柊を視線で促した。
「他も似たようなことばかりですよ。今でこそ多少は処世術を身に付けていますが、当時は頑固に、俺は悪くない、間違ったことは言ってないの一点張りで、その度に私達は肝を冷やしたものです」
柊はあっさりと答えると、忍人に向って呆れたように言う。
「一度あれだけ怒らせれば普通は懲りるでしょうに……学問も武道もすぐに身に付けられるくせに、ああいうことに関しては学習能力がないんですね、忍人は。子ども扱いするな、と言う割には、いつまで経っても大人の対応が出来なくて……道臣の根気強い説得がやっと功を奏した時は、私も羽張彦も安堵いたしました」
返す言葉もなく、忍人はただただ俯くばかりだ。
「二ノ姫のことで風早に意見する前に、後始末に追われる私達の苦労を少しは考えてもらいたかったものです。何度百叩きにされようとあなたの勝手ですが、それだけで済んだのは最初の内だけでしょう。簀巻きにされて首に浮を付けられて流されていくあなたを助けるために冷たい川に飛び込んだり、広い森の中からあなたが縛り付けられたたった一本の木を探し出したりと、私達がどれだけ大変な思いをしたか、あなたは解ってるんですか?」
「はは…、川に飛び込んだ道臣は風邪ひきましたしね」
「笑い事ではありません。他人事のように言ってますけど、全部あなたの仕業ですよ、風早」
柊は、今度は風早に向って呆れた顔をする。
「道臣が風邪をひいたおかげか簀巻きにして川にドボンは一回限りでしたけど、その後も風早は、忍人の姿が見えないようですが、と問えば、千尋の悪口を言うような悪い子は森に捨てました、って……その度に、森を大捜索です。頑として忍人の居場所を言おうとしないのですから、捜し出すのは大変でしたよ。忍人は忍人で、苦労してやっと見つけてあげれば、それまでぐったりしてたくせに開口一番、来るのが遅いと文句を言うし……まずは礼を言うべきでしょう。青褪めて出迎えた道臣や一ノ姫との逢引を取りやめて捜索に加わった羽張彦には素直にお礼を言って謝罪したくせに、力の限りを尽くして見つけてあげた私には文句を言うとは何事ですか?あんな状態でなければ、引っ叩いていたところです。優しく連れ帰ってあげた私に感謝することですね。あのまま一晩放置して差し上げても良かったくらいですよ」
その時のことを思い出して怒りがぶり返してしまったらしく不平不満を次々と並べ立てる柊を前にして、風早と忍人は居た堪れない気持ちになる。
「あぁ~、えぇっと…すみませんでした」
「…申し訳ない」
それを見て、千尋が微笑む。
「皆さん、仲良しだったんですね」
これには忍人が怪訝な顔をする。
「君は、今の話を聞いて、どうしてそう思えるんだ?」
「だって、道臣さんは忍人さんの為に川に飛び込んでくれたし、羽張彦さんは姉様と会う時間を割いて忍人さんを捜してくれたんでしょう?柊だって、毎回必死に捜してくれたみたいだし…」
だから仲良し、と笑う千尋に、一同は何も言えなかった。
だがその裏で、那岐は思った。
「百叩きに、簀巻きに、磔って……何やってんだよ、風早。やっぱり、普段温厚そうにしてる奴ほど、怒らせると怖いね」


-了-

《あとがき》

壊れた風早のお話でした(^_^;)
忍人さんは、気心の知れた相手には失言連発しそうと言うか、言葉選びに問題がありそうな気がします。
普段は威厳を保って言質を取られないように気を張ってる反動で、気心の知れた人しか居ないところでは地雷踏みまくりで隙だらけだったりして…。

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