インフルエンザ

橿原宮に熱病が流行し、そこで暮らす者や働く者の大半が高熱と咳に悩まされた。
その猛威はすさまじく、岩長姫までもが臥せった程である。
「ゴホゴホッ……ったく、アタシも焼きが回ったもんだ。お前さんはピンピンしてるってのに…」
「ほほほ…あなたも人の子だったということなのでしょう。今だけは、この忌まわしき血に感謝の念すら覚えます」
無防備に罹患者の傍に居ても無事だったのは、白麒麟である風早に星の一族である柊と狭井君、土蜘蛛の遠夜、そして狗奴達くらいのものだった。

「だいぶ熱も下がったことだし、少しだけなら起きても構わないだろう?」
「いけません」
「少しだけだ。千尋の様子を見たら、すぐに戻る。無論、お前の付添い付で構わない。だから、少しだけ…」
忍人が看護にあたっている三狼に何度も願い出るものの、三狼も譲らない。下っ端なら従ってしまうかも知れないが、そこは付き合いの深さが違う。「目を瞑れ」と命じられようが「見逃してくれ」と頼まれようが、断固として態度を変えることはない。忍人の肩を押さえて寝台へと押し戻す。
そもそも狗奴達は、こういう時の忍人の脱走には充分注意を払うようにと日頃より千尋からよく言い遣っている。ましてや此度の流行り病は、症状が治まってもすぐには出歩いてはいけないとの注意を喚起されている。それ故に、忍人の意識が戻ってからは常に狼三兄弟か灰矢が看護にあたっているのだった。
「ダメです、聞けません。俺の一存で勝手なことをして忍人様に何かあったら大変だし、下手な真似をしたら姫様や兄貴達に叱られる」
「そこを、何とか…」
千尋が発病してすぐ「伝染るから」と隣室に追い出されて、そこで忍人も寝込んでしまった。以来、千尋の様子は碌に知れない。
風早は千尋に付きっきりで、たまに那岐の様子も見ているらしいが、こちらには全く顔を出さなかった。
遠夜はこちらにも来てくれるが、さすがに詳しいことまで表情から読み取ることは出来なかった。とりあえず、千尋も快方に向かっているらしいことくらいしか解らない。
この際、柊がからかいついでにでも良いから顔を出して、回りくどくても構わないから何か情報をくれないか、などとも思うのだが、これまた要らん時にはやたらと現れるくせに待っている時には一向に顔を出さない。狗奴達の話では、布都彦と道臣の看病を受け持っているとか、千尋から病床にある忍人の元へは出入り禁止を言い渡されているとか、感染を免れた官人達の指揮と山と積み上がった執務の代行で大忙しだとか、いろいろ事情があるらしい。
だから、忍人はどうしてもその目で千尋の様子を確かめたくなったのだ。
「本当に少しだけ……頼む…」
しかし、両手を合わせて頼んでみたところで、三狼にはその可愛さも色香も通用しない。
「ダメと言ったらダメです」

「頼むっ、行かせてくれ!」
この日の看護兼見張り役である太狼を相手に、寝台の上で身を起こした忍人が必死に食い下がって押し問答を繰り広げていると、戸口から楽しげな声がする。
「ふふっ…これはまた、何とも素晴らしい台詞でのお出迎えですね」
その声と共に、柊が遠夜を伴って入って来た。忍人の熱が完全に下がったことで面会禁止令が解け、それどころか逆に様子を見て来てくれるよう千尋から頼まれたのである。
「そのあまりにも素敵な響きと体勢に、危うく勘違いして襲ってしまうところだったではありませんか」
「……冗談はさておき、千尋の容体について知ってることを教えてはもらえないか?」
この際、柊の半分は本気かも知れない悪い冗談などに構っている余裕はない。やっと舞い込んだ貴重な情報源だ。何せ柊は、執務の報告や相談で、最低でも日に一度は千尋の元を訪い、風早に門前払いを喰らわされることなく千尋と顔を合わせているはずなのである。
「そうですねぇ……熱はだいぶ下がって、食欲も出て来られたようです。昨日など、焼肉が食べたいと風早に強請っておいででした」
「焼肉…?」
「ええ。体力を付けるなら肉が一番だと仰られて……さすがに、弱った胃にそれは無茶です、と風早が止めてましたが…。それと、あなたの様子を見に行きたい、と駄々をこねておいででした。私は毎日、直接会えずとも狗奴達から話を聞き出して、知る限りのことをお伝えしていたのですが、やはりご自身の目で確かめたいらしく…。遠夜は、少しくらいなら起きても構わない、と言ったらしいのですよ。ですが、完治するまでは絶対に認めない、と風早が言い張りまして…」
それを聞いて、忍人は遠夜に縋るような目を向ける。
「頼む、遠夜。俺も、少しだけで良いんだ。千尋の様子を見に行くのを認めてくれ。君が許可してくれれば、風早と違って、太狼は反対しないと思うから…」
すると、遠夜はあっさりと頷く。
「……良いのか?」
遠夜はまた、コクンと頷いて見せる。
「少しなら……構わない…。神子も……忍人の顔を見たいと……望んでいる…」
遠夜は寝台から降りる忍人に手を貸すと、その身に衣を数枚重ね着させて、千尋の元へと連れて行ってくれた。

「二人共……安心した?」
「うん、ありがとう、遠夜。忍人さんも、その目で私の具合を確かめられて、安心出来ました?」
「ああ。思っていたよりも体調が良さそうでホッとした」
「それなら……後はゆっくり休んで…」
遠夜は問答無用で忍人を連れ戻した。
迎え入れた太狼は、忍人に問う。
「姫さまのお加減は如何でしたか?」
「ああ、大分良いようだった。やはり、自分の目で確かめられると安心出来るな」
笑顔で答えながら横になる忍人に、太狼はちょっと表情を緩ませてからすぐさまそれを引き締めて言い渡す。
「では、次に姫さまにお会いするのは完治した時だと心得て……少しでも早く治るように、極力口を開かず、水分とって暖かくして、栄養ある物食べて薬湯飲んで、勝手に起き上がったりせず、ひたすら大人しく寝ててください。いいですね?」
「…はい………ごめん…なさい…」
消え入るような声で謝ると、忍人は布団の中で静かに目を閉じたのだった。

-了-

《あとがき》

次元の彼方に買出しに行った風早が、物資と一緒にインフルエンザウイルスも背負って来てしまったというお話(^_^;)
人間にしか伝染らないので、背負って来た張本人はピンピンしてます。そして、そんな風早の近くに居る人――十中八九、千尋――から徐々に感染が広がりました。

お互いに隔離されちゃってるので、相手の様子が知りたくて堪らない千尋と忍人さん。
特に忍人さんは、何でも自分の目で確かめたがるし、毎日柊と情報交換している千尋と違って入ってくる情報も少ないので、起き上れるようになったら少しだけでも千尋の様子を見に行きたくて、狗奴さん達相手に大騒ぎです。

すぐ隣の部屋で騒いでる割には、二人共喉は本調子じゃないので声量は不足してるし、風早や狗奴さん達も含めて誰も声を荒げたりはしてないので、隣の部屋までは聞こえていません。
そんな喉の状態で忍人さんは執拗なまでに「千尋の様子を見に行かせてくれ」と言い続けたもんだから、最後は太狼さんにビシッと諌められて、子供みたいに謝ることとなってしまいました(^o^;)

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