黒き獣

「忍人…さん…?忍人さん…っ!? しっかりしてください、忍人さん…っ!!」
ムドガラを倒したものの地に伏した忍人は、薄れゆく意識の中で千尋の声を聞き、心の中で呟いた。
将は人前で取り乱すなと、あれほど言ったのに…本当に君は、わからない人だ…。
ちゃんと…言わなければ…。君は王となるのだから…俺がどうなろうと…しっかりせねば、いけないと…。
そう言わなければ、いけないのに…遠い…。君の声が……どんどん、遠ざかっていく。
そして強く思った。彼女を放ってはおけない、おちおち倒れ伏してなどいられない、と…。
その願い故にか、忍人が完全に意識を失うと同時に、その身体から小さな光が漏れ出し人知れず地を伝って何処かへと消えて行ったのだった。

遠夜の見立てでは、忍人の身体がかなり衰弱しているということだった。遠夜がせっせと薬湯を作っては口移しで飲ませてくれたおかげか、少しずつではあるが回復の兆しが見られるようだったが、忍人は一向に目を覚ます気配が無かった。
「傍にいてあげて……」と言われてずっと付き添っていた千尋は、もどかしさが募る一方だった。何か自分にも出来ることがあるのではないのか。そうして考えを巡らせた結果、とうとう千尋は薬草を探しに天鳥船を飛び出してしまったのである。

千尋は、前に皆で薬草摘みをした辺りから徐々に森の奥へと進んで行く。
草を分けて夢中で探していると、上着の裾が何かに引っ掛かったようだった。
振り向くと、黒い獣が裾を銜えて引っ張っている。
「わぁ、立派なワンちゃん。何処から来たの?もしかして、迷子?なぁに、私に遊んで欲しいの?」
服を引っ張り続ける獣に、千尋は仕方なさそうに棒切れを拾うと「ほ~ら、とって来~い」と投げてやった。しかし、獣は見向きもしない。
「何よ、引っ張りっこが良いの?」
千尋は隠しから手巾を取り出すと、獣の口元に持って行ったが、これにも見向きはされない。
執拗に上着の裾を引っ張るばかりの獣に、千尋は頭に来た。
「もうっ、知らない!」
千尋は獣を無視して、薬草摘みに戻ることにした。すると、獣の方も諦めた様子で牙を放す。
しかし、去っては行かない。千尋が移動すると、獣も付き従うように後を追って来る。
常に傍近くに立ち、首を高く上げて辺りを警戒している様子を見て、千尋の脳裏に彼の姿が浮かぶ。
「うふふ…まるで、忍人さんみたい。えぇっと、人じゃなくて犬だから……忍犬(おしいぬ)さん?」
千尋は楽し気に微笑んだ。それから、そっと呼びかけてみる。
「忍犬さん」
ピクリと獣の耳が動き、何やら物言いたげな目が向けられた。その仕草に、千尋はますます彼と獣を重ね合せた。
「あはっ、やっぱり忍犬さんだ」
そう独り言つと、千尋は安心したように薬草摘みに専念し出したのだった。

突然、獣の様子が変化した。 茂みの向こうを睨んで、低いうなり声を上げる。
「どうしたの、忍犬さん?」
立ち上がりかけた千尋に、振り返った獣が大きく牙を剥いた。驚いた千尋がその場で尻餅をつくと、その頭上を矢が通り過ぎる。
さすがに千尋も状況を悟った。反射的に天鹿児弓を呼び寄せ、矢の放たれた方向を見据える。
すると、獣が一気に茂みの向こうへと駆けて行った。悲鳴と唸り声が上がり、暫しの静寂の後、草陰から何かが近付く音がする。
千尋は天鹿児弓を構えていつでも矢を放てるように引き絞ったが、草陰から現れたものを見て警戒を解いた。
「忍犬さん……良かった」
その爪先と口元には、ベッタリと血が付いていた。駆け寄った千尋がそれを拭ってやると、獣は再び千尋の上着の裾を銜えて引っ張る。引っ張りながら視線を向けた先には天鳥船があることに気付いた千尋は、ハッとなった。
「そ、そうだね。急いで皆に知らせなくちゃ…」
千尋が弾かれたように船に向って駆け出すと、獣は薬草の入った籠を銜えてその後を追って行ったのだった。

「ああ、我が君……ご無事で良うございました」
「心配したんですよ。一人で勝手に何処か行ったりしないでください」
忍人の代わりに兵達の訓練に出ていた風早は、柊からの「姫、見当たらず」という知らせを受けて、急ぎ舞い戻ったところだった。
「ごめんなさい。あっ、でも、ずっと一人だった訳じゃないよ。忍犬さんが一緒だったもん」
「忍犬さん……というのは、この……俺の足を踏み付けながら柊を威嚇してる、コレのことですか?」
見れば、風早の足の上に乗った獣のそれは、たまたま踏んでしまったとは言えないくらい明らさまに風早の足を踏み躙っていた。その状態で、今にも柊に飛びかかりそうな様相だ。
「きゃ~、ダメだよ忍犬さん、風早にそんな事しちゃ……柊だって、そりゃ見た目も言動も超怪しくて胡散臭さの塊みたいなド変態だけど、間違っても私に危害加えたりはしないし、戦闘以外ではいろいろお役立ちでとっても頼りになる大切な仲間なんだから、威嚇する必要なんてないんだよ」
「我が君……それは、褒められてるのか貶されてるのか、さしもの私も些か判断に迷いを覚えずには居れません」
「う~ん、少なくとも、柊の見た目と言動に関しては、俺も庇いようがないですねぇ。戦闘では、たまに役に立つこともある気がするんですけど…」
話が逸れかけたところで、那岐のツッコミが入る。
「戦闘中に柊が役に立つかどうかなんて、そんなのどうでもいいだろ。どうせ、滅多に前線に出ないんだしさ。それより、千尋……忍犬って、”忍人”の犬版って意味?だったら、こいつ、犬じゃなくて…」
那岐が何か言いかけたところで、遠夜の驚きを含んだ声が割り込んだ。
「忍人っ……!?」
「えっ、忍人さん!?何、どういうこと、忍人さんが目を覚まして何処か行っちゃったの?」
千尋はキョロキョロと辺りを見回すが、それらしき姿は見当たらない。すると、遠夜はスタタタッと千尋達のところへ歩み寄って、風早の足元から獣を抱え上げた。
「忍人……」
「ヘっ、忍犬さん…?」
「神子…………忍犬じゃなくて忍人……。これは忍人の魂魄…………この姿は……玄武が与えたかりそめの器……」
遠夜の言葉に、千尋は驚嘆の叫び声を上げた。
「えぇ~っ、忍犬さんが忍人さん!?……ってか、何で犬なの!?玄武ったら、かりそめの器だからって、手抜きしないでよ~っ!!」
その叫びに、遠夜の腕の中で獣がちょっと情けない声で「クゥン」と鳴いた。

正体がバレたからか、回復した本体に引き寄せられたからか、かりそめの器は光となって解け散った。霧散する光の中の一つが、忍人の身体へと飛び込んで行ったが、その様子を目の当たりにした者は居なかった。
しかし、半信半疑だったこの出来事も、忍人が目を覚ますなり現実だったのだと実感させられた。
「忍人さん……良かった、気が付いたんですね」
「……ちひ……二ノ姫………」
ぼんやりとしながら千尋に呼びかけた後、忍人はカッと目を見開くと跳ね起きて怒鳴りつける。
「犬ではない、狼だっ!!」
「……はぃ?」
何を言われたのかと面食らう千尋に、忍人は言い募る。
「そもそも、君は一体、何度言えば解るんだ。一人で出歩くなと、いつも言っているだろう。それを誰にも何も告げずに船を抜け出して……君は良かれと思って薬草探しに行ったのかも知れんが、それならそれでしっかりと護衛を付け、言伝を残してから行け。勝手に一人で出かけたりするから、敵の残党に危うく殺されそうになどなったのだろう。俺が居なかったら……玄武が力を貸してくれていなかったら……今頃、君は死んでいたかも知れないんだぞ。その上、何だ、せっかく摘んだ薬草を忘れるとは……」
これが先程まで意識不明だった人間かと疑いたくなるほど、忍人の説教は延々と続いた。時々、ゼィハァと苦し気に息をしているが、それでも言い止みはしない。
反論の余地もない千尋は、「すみません」「はい、その通りです」と、ひたすら頭を下げるばかりだった。
そして、この場に居合わせた風早と柊は深く得心した。
「目を覚まして真っ先に言うのが、あの台詞とは…」
「どうやら本当に、”忍犬さん”は忍人で間違いなかったようですね」
何よりも先に「犬ではない、狼だ」と叫ぶほどその違いにこだわり、その上、千尋と”忍犬さん”しか知らないであろうはずのことで怒涛のような説教三昧の忍人の態度に、千尋も風早も柊も、もはやあの獣の正体が忍人ではなかったなどと疑う気持ちは一片たりとも持ち得なくなったのであった。

-了-

《あとがき》

ムドガラ倒して失神イベントも、結構、妄想を刺激してくれます。
忍人さんが目を離すと、千尋は碌なことしないんじゃないかと思います。

この時代、白龍がケチな分、四神は何かと力を貸してくれる設定です。
そして、忍人さんは大の狼好き(*^_^*)
かりそめの器は本来の姿形を模す訳にはいかないので、玄武は忍人さんの内面を模して狼の姿形を取らせました。
でも、千尋には犬と狼の区別がつきません。なので、”犬”扱いされて大変ご不満な忍人さんなのです。

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