涙の行方

敵を足止めする為に精鋭と共に戦場に残った忍人は、船の位置を知られぬようかなり慎重にあちこち遠回りし、随分と時間をかけて帰還した。
その帰りを、千尋は今か今かと待ち侘びて、忍人達なら大丈夫だと思いながらも不安を拭いきれずに、天鳥船の入り口でずっと外を見ていた。だからこそ、忍人の姿を目に捕えるなり、後先構わず飛び出してしまったのだった。

「忍人さん!」
端近からこちらを見ていた挙句に供も連れずに駆けて来る千尋の姿を見て、忍人は目を剥いた。それから、「またか…」とばかりに嘆息する。
「軽率だな。このような振る舞いは…」
「良かった、忍人さん。無事だったんですね」
勢い余って胸元に飛び込んで来た千尋の言葉に、忍人は面食らった。
「帰りが遅いから、心配してたんです」
只でさえ千尋の一向に改まらぬ振る舞いに憤りを感じていた忍人だ。千尋のこの発言には完全に気分を害された。
「心配?」
「はい。何かあったんじゃないかって……本当に、心配で…」
重ねて言われ、つい怒りに任せた言葉が忍人の口をつく。
「駆け出しの新兵でもあるまいに…」
慌てて離れた千尋は、弁解しようとしたが上手く言葉が出て来ない。そして忍人の方も、千尋がそういう意味で言ったのではないのかも知れないと考えられるような余裕などなかった。喉元まで上がって来ていた言葉は止まることなく、そのまま千尋にぶつけられる。
「君にそのような心配をされるなど、俺の力も随分と見くびられたものだな」
途端に千尋は嗚咽を堪えるように口元を抑えると、「ごめんなさい…」と小さく呟いて船の中へと駆け戻って行く。
その様子にも、忍人は「また、そうやって独りで…」と呆れ、更に怒りを覚えたのだが、頭が冷えて来ると背を向ける直前にチラと見えた泣き顔が思い出される。
言い過ぎた、と忍人が反省し、千尋がどんなつもりで「心配してた」と言ったのかに気付いた時は手遅れだった。船内にいるのは確かなはずなのに、千尋の行方は掴めなくなってしまったのである。

千尋の姿を求めて忍人が船内を捜し回っていると、いきなり肩を掴まれた。
「聞きましたよ、忍人。我が君を泣かせたそうですね」
柊は忍人を壁に押し付けると、更に全身で動きを封じて、鼻先が触れそうなほどに顔を近づける。
「さて、どうしてくれましょうか」
「くっ……離せ。俺は、一刻も早く彼女に謝りたいんだ」
忍人の言葉に、柊は目を丸くした。忍人があちこち駆け回って姫を捜しているのがそのような理由だったとは思いもしなかったのだ。
「……姫に謝りたい…んですか?」
「そうだ。俺のしたことが許せないと言うのなら、後でどうとでもしろ。だから、今は離してくれ……頼む」
風早ではそうはいかないが、柊には多少の理解はあった。しばし逡巡してから手を放す。
「そういうことでしたら、ひとまず処分は保留にして差し上げましょう」
しかし柊は、急ぎ立ち去ろうとする忍人を呼び止める。
「何だ?」
「そちらに姫は居られませんよ。こちらです。ついておいでなさい」
謝りたいと言うのであれば、姫の居場所を隠す必要などない。柊は、忍人を千尋の元へと連れて行くことにする。
散々捜し回っても千尋を見つけられなかった忍人も、この時ばかりは藁にもすがる思いで、素直に柊の後について歩き出した。

「書庫…?」
「ええ、我が君はこの奥にいらっしゃいます」
ここも探したはずなのだが、もしかして柊の居座る場所である所為で無意識に身を遠ざけていたのだろうか。しかし、だからと言って気配に気づかぬ程ではなかったはずなのだが、ここまで自信たっぷりに言われると忍人としては確かに「隅々までしっかり探した」と言い切れるだけの自信はない。
半信半疑で忍人が奥へ進むと、千尋をあやすような風早の声がした。そこで忍人はハッとして柊を仰ぎ見る。
「ええ、そういうことです」
先刻、忍人が千尋を探してここへ来た時、風早が『遁甲』を使って二人を隠していたのだ。立ち去った後に効果が切れ、おそらく今度は柊が『遁甲』で忍人ごと身を隠して来たために、今はこうして姿を確認することが出来たのだろう。
「二ノ姫…」
ビクンと肩を震わせて千尋が涙の残る顔で振り返った。
「忍人……さん…?」
「何しに来たんですか、忍人?」
千尋を庇うように、風早が二人の間に立ちはだかる。その場に千尋が居るおかげで手こそ上げないが、忍人に向けられた目はその視線だけで心の臓を突き通すようだった。
「忍人……さぁ、姫に…」
柊に背中を押されて、忍人はどうにか半歩踏み出すと、風早越しに千尋に話しかける。
「二ノ姫……君に謝りに来た。先程は、すまなかった。君は俺の身を案じてくれただけだったのに、あのような言い方をして、傷つけて、泣かせて…………本当に悪かった」
そう言って忍人は深々と頭を下げた。

しばらくの間、誰も何も言わず、まるで時が止まったかのようだった。
風早は忍人を睨み続け、忍人が頭を上げることもない。柊も、茶々を入れることなく黙って見守っていた。
静寂を破ったのは、千尋のか細い声だった。
「忍人さん……柊に何か言われて謝りに来たんですか?」
「違うっ!! 俺は…」
弾かれたように頭を上げた忍人に、千尋はもう一度問う。
「柊に連れて来られたんじゃないんですか?」
「違いますよ。忍人は、自分から謝りに参ったのです。私は案内しただけに過ぎません」
忍人よりも早く、柊が答えた。
「お疑いになられるのも無理はありません。忍人は誰が相手であっても――それこそ私であっても――悪いことをしたと思えば謝りますが、あの状況で姫に悪いことをしたと認識できるなど不思議に思われることでしょう。しかも、”俺達の”ではなくて”俺の身を”です。それでは、誰かに入知恵されたと思われても仕方ありません。ですが…」
それから柊は怪しく笑って続ける。
「もしも私が強要するのであれば、このような生温い謝罪の仕方など認めません。最低でも、姫の前に跪かせてその頭を力一杯床に押し付けてやっていることでしょう」
それもそうか、と千尋が納得しかけると、同じことを呟いて忍人が膝を折った。
「忍人さん!?」
「確かに、あのような言い方では伝わらないな。詫びるなら、もっときちんとした形で…」
「いいい……良いんです、そんなことしなくてっ!! もう、充分伝わりました……って言うか、元々、泣いたのは忍人さんの所為じゃなくて自己嫌悪みたいなもので……寧ろ、謝るのは私の方で…」
千尋に促されて立ち上がった忍人は、俯く千尋を不思議そうに見つめた。
「何故、君が謝る必要がある?」
「だって、忍人さんの戦士としての誇りを傷つけるようなこと言っちゃって……忍人さんは『不敗の葛城将軍』なのに…………忍人さんが、莫迦にするな、って怒るのも無理ないです」
「だが、君にはそのようなつもりはなかったのだろう?」
「そ…それは、そうなんですけど…」
「君はただ、俺の身を案じてくれただけだ。ならば、謝る必要などない。やはり、俺の方が…」
「いいえ、忍人さんも謝ることありません!」
お互いに自分が悪いと言い張る二人を見ていて、柊が辟易したように呟く。
「……痴話喧嘩は私の居ない処でやっていただきたいものです」
その声音に千尋が吹き出した。おかげで風早の機嫌も直り、忍人も脱力してしまい、場の空気はすっかり和んでしまったのだった。

「あ~あ、ホッとしたら何だかお腹減っちゃった。風早、おやつ、まだ良いかな?」
「ええ、大丈夫ですよ、まだ夕餉までは時間がありますから…」
ニッコリ笑って千尋と風早は出て行った。
二人が書庫から出て行くのを待って、柊は声を掛ける。
「良かったですね、姫が笑顔を取り戻されて…」
「ああ、そうだな」
忍人が安心したように僅かだが微笑むと、柊は少しばかり表情を引き締めて言う。
「そこで、保留にしていた件なんですけど…」
「ああ、おかげで目的は果たせたことだし……もう、どうとでもしてくれて構わない」
大真面目に返す忍人に、柊は柔らかな笑みを浮かべて応えた。
「ふふふ…莫迦ですね、忍人。不問にするに決まっているでしょう。我が君がお許しになられた今、どうして私があなたを罰することなど出来るのですか」
キョトンとした忍人に、柊は言う。
「それより、私達も姫のお茶席に加えていただきに参りませんか? 案内料代わりとでも思って、お茶の一杯も付き合ってください。そのくらいの時間は取れるでしょう?」
「ああ、そのくらいなら構わない」
忍人がそう答えると、途端に柊は嬉しそうに忍人の腕を取り背中を押して千尋と風早の後を追い始める。
「では、行きましょ、行きましょう」
やけに浮かれている柊に面食らいながらも、忍人は大人しくそれに従う。そして、普段ならば振り払うその手に促されるまま、共に千尋達の元を訪ったのだった。

-了-

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