禍は流転す

「ああっ、お待ちください、陛下!葛城将軍から、誰も通すなとのご命令なのです」
執務を終え、いつものように忍人のところへとやって来た千尋は、部屋の近くまで来たところで兵達に前を塞がれた。
しかし、慌てず騒がず笑みさえ浮かべて毅然と告げる。
「女王命令です。通しなさい」
そうやって強引に部屋へと踏み込むと、忍人が卓子の陰で奇妙な体勢を取っていた。
「えぇっと、忍人さん…どうして……女豹のポーズ?」
「君は時々意味の解らない言葉を使うが……今のこの状態のことを言っているのなら、これは俺の本意ではない」
「それは聞かなくても解ります。ですから、不本意ながらそんな格好で居る理由を教えてください」
そんな格好というのは、その姿勢のみならず忍人の下衣が膝まで引き下ろされていることにまで言及していた。それすら体裁を繕うことが出来ないなど、一体どうしたのだろうかと千尋は首を傾げる。
すると、忍人は苦し気に応えた。
「下手には動けないからだ。下手に動くと、腰が折れそうで……時間をかけて少しずつ姿勢を変えている」
千尋はめくれ上がって脇に退けられていた忍人の上着の裾をその下半身にそっと掛けてやったが、忍人の様子はかなり痛々しかった。
「まるでぎっくり腰みたいですけど……それって、風早の仕業ですか?」
上着を掛けてやる際に目に留まったのは、真っ赤に腫れ上がった尻だ。それを見れば、風早に百叩きにされたのだと察しはつく。
「その通りだ。もしや、君が風早に何か言ったのか?」
「ん~、覚えはありませんけど…」
「何やら、君との約束を破ったとか破ろうとしてるとか言っていたのだが…」

いきなりズカズカと押し入って来た風早は、その勢いのまま忍人を椅子から担ぎ上げると、部屋の奥で百叩きにし始めた。
「ちょっ……待て。俺が一体、何をした!?」
「しらばっくれるんじゃありませんよ。君は、約束だけはしっかり守る子だと思ってたのに……よりにもよって千尋との大切な約束を破ろうだなんて……絶対に許せません。ええ、一度や二度百叩きにしただけでは到底勘弁なりませんからね!」
その後は全く話にならない。
位置的には卓子の陰となっているし身近な者達はこのような事態に慣れているものの、こんなところが迂闊に他人の耳目に触れてはならぬと、忍人は部屋の前の兵達に向って叫んだ。
「俺の許可があるまで、絶対に誰も中に入るな。誰も通すな。これは命令だ!」

「はぁ…。一度や二度で勘弁ならないなら、一体、何度百叩きにしてったんですか?」
「…………3度だ。そこまで風早を怒らせるようなことをした覚えなどないのだがな。君には何か覚えがあるか?」
「う~ん、私にも心当たりありませんね。少なくとも、風早とそんな話をした記憶がないことだけは確かです」
そう話している間も、忍人は少しずつ姿勢を変化させていくのだが、それは遅々として進まない。
「こんなところ、柊に見られたら大変なことになりそうですね」
「ち…千尋っ、こんな時にその名前を口にすると…」
「お呼びですか…我が君」
「ほら見ろ、湧いて出てしまった」
「おや、これはこれは……大層艶めかしい恰好をしてますねぇ、忍人」
柊は千尋の掛けてやった上着を楽しそうに捲り上げる。
「ああ、これはまた、随分と派手にやられたものです。お尻が真っ赤ですよ。今度は一体、何をやらかしたんですか?」
そう言うと、柊は無造作に軽くそこを撫で上げた。
「触るな、莫迦!」
反射的にその手を逃れ反撃しようと動いた忍人は、そのまま体勢を崩してベシャッと床に延びてしまった。
「……大丈夫ですか?」
「柊っ!!」
不安げにそろそろと手を伸ばた柊は、千尋の鋭い声が掛かった途端にピタリと静止した。
「壁際まで下がって、お座り。そのまま、待て」
その号令に、柊は壁際で正座する。
目を丸くしている忍人に、再び下半身を隠してやりながら、千尋は優しく訊いた。
「腰、折れてませんか?摩った方が良ければ、そうしますよ。何か、お薬貰いますか?それとも、遠夜を呼んで来ましょうか?」
「では、遠夜を……いや、ここに呼ぶのは避けた方が良いな。部屋の方へ…」
官人達は、遠夜に対してあまり良い顔をしない。女王にも葛城将軍にも大切に思われていることは知っている為、直接非難するような真似はしないが、遠夜の姿を見かけると遠目に蔑みの視線を向けヒソヒソと何事か話し合うので、千尋も忍人も出来るだけ遠夜に外宮へは足を運ばせたくなかった。
「解りました。あっ、でも、忍人さん、部屋まで戻れますか?ちょっと動くだけでも辛いんじゃ……私の肩なら幾らでも貸しますけど、無理しないで、太狼さんか誰か呼んで、運んでくれるよう頼みましょうか?」
「いや、こんな莫迦げた騒ぎで仕事中の彼らを呼び付けるのは忍びない。この際、贅沢は言わずに、暇を持て余している駄犬の手でも借りるとしよう」
意味が解らず千尋が首を傾げると、壁際から声がした。
「駄犬とは酷いですね。こんなに良い子にしてずっと大人しく待ってるんですから、ちゃんと忠犬と呼んでください」

柊に着衣を整えてもらい、忍人は壊れ物扱いで丁寧に寝室へと運ばれた。
千尋がしっかり目を光らせているので、柊も迂闊なことは出来ない。それでも、忍人が身を預けてくれて、お姫様抱っこにも文句を言わないので、なかなかに上機嫌だった。
「はい、着きましたよ」
柊は、腰に負担が掛からないような姿勢でそっと寝台の上に忍人を横たえた。
「…………ありがとう」
忍人から辛うじて耳に届く程度の小さな声で礼を言われて、柊は感動に打ち震えた。
「どしたの、柊?」
千尋が訝しんで声をかけると、柊はまだ半分夢見心地のまま答える。
「忍人から、こんなに素直にお礼の言葉をかけてもらえるなどとは夢にも思わなかったものですから…」
「えぇっ、でも忍人さんは、相手が柊でもちゃんとお礼を言ってはくれるでしょう?」
好き嫌いはさて置き、何かしてもらったら礼儀として謝辞くらいは述べるのが忍人だ。
「確かに、お礼は言ってくれますが……前置きとして”一応礼は言っておく”とか、謝辞の後に数倍の不平不満が続くのが常です」
「まぁ、確かに普段の行いが悪過ぎるものね。それじゃあ、珍しく忍人さんから素直にお礼を言ってもらえたところで、今度は不平不満を言われない内に、遠夜にここへ来てくれるように伝えて、それから風早をしょっ引いて来て」
「はい、我が君」
柊は弾んだ声で返事をすると、悦び勇んでいそいそと出て行ったのだった。

柊が風早を連れて戻って来た時、遠夜の手当てを受け終えた忍人は、痛み止めが効いて眠っていた。
「さてと、風早……どうして忍人さんにこんな酷いことしたのか、とりあえず申し開きくらいは聞いてあげるよ」
「申し開きも何も、忍人が千尋との約束を破るのが悪いんじゃないですか」
「約束って、何?」
「お花見の約束です。昨年、約束してたでしょう?今年も一緒に桜を見に行く、って…」
風早の言葉に、千尋は首を捻る。
「そんな約束した覚えはないんだけど…」
すると、柊が千尋に聞こえないように小声で風早に囁いた。
「もしかして、別の次元の記憶なのではありませんか?」
「違います。間違いなく、この次元の話です」
コソコソと話す二人に、千尋の厳しい視線が突き刺さった。
「何をコソコソしてるの?柊、風早に何か上手い言い訳を伝授しようとか考えてるんなら…」
「いいえ、滅相もない。ただ、風早の勘違いなのではないかと考え、その詳しい経緯を探ろうとしていただけにございます」
「そういう話なら、コソコソじゃなくて堂々としなさい。風早、私がいつ何処でどんな風に忍人さんとそんな約束したのか言ってみてよ」
千尋の追及を受けて、風早は自分が見聞きしたことを語り始めた。

それは、しばしの休みをもらった千尋が忍人に声をかけ、二人で桜を見に行った時のことだった。
そろそろ帰ろうかという段になって、忍人が言ったのだ。
「出来ることなら、また来年も、こうして君と共に桜を見に来たいな」
それを聞いて、千尋も笑顔で返した。
「そうですね。来年も、再来年も、その先もずっと、こうして忍人さんと一緒に桜を見たいです」

「ねっ、毎年一緒に桜を見に行こうって約束してたでしょう?なのに、忍人ったら、今から伊予の騒乱を鎮めに行こうだなんて……戻って来る頃には、桜の季節なんてとっくに終わっちゃってるじゃないですか。それを…」
「あのね、風早」
言い募る風早は、咎めるように千尋に名を呼ばれて押し黙った。
「私達は毎年一緒に桜を見るって約束はしてません。どこで覗き見してたのかは知らないけど、それって、そう出来たら良いねって話であって、ちゃんと約束した訳じゃないでしょう?」
「でも…」
風早は食い下がろうとしたが、無視して千尋は先を続ける。
「それと、もしもあれを約束と見なした場合も、悪いのは忍人さんじゃなくて私ってことになるの。だって、私が女王として葛城将軍に伊予行きを命じたんだもん。正式に命じられたら、忍人さんは余程のことがない限り断れないでしょう?」
そこで風早が何か言う前に、柊が千尋に賛意を示す。
「断るには、もっと良いと思われる代案か、どうしても離れられない重大な理由が必要となりましょう。まさか、妻と花見に行く約束があるので行けません、などとは言えますまい。忍人には公私共に不可能です。私なら、実しやかな口実を大量に並べ立てますけど…」
「柊なら、そうなる前に何らかの手を打ってそうだけど……ホント、どうせなら、もうちょっと早く戻って来てくれると嬉しかったわ」
「申し訳ありません」
「でも、戻って来たからには、代案と言い訳考えてくれるよね?花見云々以前に、風早の所為で忍人さんはしばらく自由が利かないもの。遠征なんて当分無理だよ。かと言って、伊予をこのままにしておく訳にも行かないし……滅多な者では忍人さんの代わりなんて務まらないし…。交代させるにしても全く違う策に切り替えるにしても、本当の理由なんて公表出来ないでしょう?これって、どうすれば良いと思う?」
千尋の問いかけに、柊は即答した。
「風早を伊予へやるのが得策かと存じます」
「風早を…?」
「何を言い出すんですか!?嫌ですよ、俺は…。俺は千尋の侍従ですよ。千尋を守る為に戦うならともかく、千尋の傍を離れて騒乱を鎮めに行くだなんて…」
「これも広義では我が君の為に戦うことですよ。そもそも、忍人の伊予行きを邪魔したのはあなたでしょう?責任をお取りなさい。ですから、我が君……忍人を害した罰も兼ねて、風早を伊予に飛ばしましょう。忍人ほどではないにしても充分使えますし、伊予には彼の戦の折に早い時期から共闘した兵達も多ございます故、風早を将と戴くに抵抗は少ないものかと存じます」
「風早かぁ…。うん、確かにあの時居残って禍日神を喰い止められたくらいだし、腕は問題なさそうだね」
千尋もかなり乗り気になった。
「そもそも、我が君が忍人を――女王が葛城将軍を――派遣しなくてはならないと判断された以上、配下の者から代理を立てる訳には参りません。腕前からも立場からも、代役たり得るのは先の大将軍である師君か侍従故に選から漏れたと見られる風早くらいのものです。しかしながら、師君にはお引き受けいただけないでしょうし、弟子の代わりに師匠が乗り出したとあっては忍人の恥。ですから、ここは一応曲りなりにも兄弟子であり軍とは無関係の、風早を指名されるが面目も立つと言うものでしょう」
「解った。それじゃあ、援軍は風早を代理で飛ばすとして…」
「勝手に決めないでください!」
「お黙りなさい!」
「風早に文句を言う資格はないのっ!!」
珍しく声を荒げた柊と、千尋からほぼ同時に怒鳴られて、風早は首を竦めた。
「今度ばかりは簡単には許さないからね。伊予に行ってしっかり戦って来てちょうだい。嫌だって言うなら、絶交よ!」
”絶交”の二文字に風早は口を封じられ、すごすごと退散すると旅支度に取りかかった。

「ん~、それじゃあ、後の問題は忍人さんを援軍から外して休ませる口実だね。とにかく、正式に命を下しちゃった訳だし…」
「そこは、私が泥を被ります」
「柊が…?」
「はい。忍人をここまで運ぶ姿を目撃されておりますことですし、ここは一つ、私の悪戯が過ぎて忍人はしばらく身動き適わなくなったということに致しましょう。本当は風早が何かしたのだと知る者達も、真相を知らしめて忍人に大恥かかせるような真似は致しますまい」
「でも、それだと私は柊に何か罰を与えなきゃいけなくなるよ。いつもみたいに忍人さんを苛めたってだけじゃなくて、身勝手な振る舞いで援軍の派遣を邪魔したことにもなっちゃうんだから…」
「御心配には及びません。私はまた姿を晦ましますので……お叱りを受ける前に逃げた、とでも仰って下さいませ」
「そんなことしたら、当分ここには顔出せなくなるよ。それでも良いの?」
「構いません。この事態を招いたのは、帰還が遅れた私の咎でもありますし……忍人の腰を悪化させた責任もございます」
「なかなか殊勝な心がけだな」
「あっ、忍人さん、目が覚めたんですね。どうですか、具合は…?」
千尋と柊が枕元へ駆け寄ると、忍人は苦し気に応える。
「さすがに辛いな」
忍人の口からそんな言葉が出るなど、これはかなりのことだと千尋は改めて風早への怒りを募らせた。
「うとうとしながら聞いていたのだが……正直なところ、風早をタコ殴りにしてやりたい気分だ。だが、それよりも今は、伊予へ行ってもらうことを優先するべきだろう」
それから忍人は、しばらく逡巡した後、静かに柊の名を呼んだ。
「はい、何ですか?」
「……すまない、迷惑を掛ける」
「えっ?」
「ありがとう。お前が居てくれて助かった」
今度はしっかりと聞こえる声でハッキリと礼を言われて、柊は天にも昇る心地がした。
「うん。私からも……ありがとう、柊。ほとぼりが冷めたら、すぐに戻っておいでね。少しでも早くそうなるように、私も頑張るから……柊が帰って来る日を心待ちにしてるからね」
「ああ、俺も……待っててやる」
柊にとって、二人のこの言葉は何より得難い報奨だ。その悦びを胸に抱いて、柊はそっと橿原宮を後にした。
そしてほとぼりが冷めて戻って来た柊は、千尋から満面の笑みで迎えられ、少しだけだが忍人で遊ばせてもらえて、とんでもないことを仕出かしてくれた風早に心の中でほんのちょっとだけ感謝したのだった。

-了-

《あとがき》

千尋が忍人さんのところへ行ったら忍人さんが女豹のポーズで固まってた、なんてことになったら面白いかな、なんてふと思ったのがきっかけで、風早が大暴走です(^_^;)q

おかげで忍人さんは大受難。
直で300回も叩かれたら、いくら我慢強い忍人さんでも堪らないでしょう。しかも相手は、木属性だし、あの手は本当は蹄なもんだから一向に威力が落ちないし…。叩かれたところが腫れ上がるだけではなく、腰にも来ます。
ただ、かなり酷い目には遭いましたが、当分の間は風早から婿いびりされない上に千尋とお花見に行けるようになったので、後に小さな幸せが舞い降りて来ることでしょう。

結果的に、柊が良い思いをするのは当サイトではよくあることです(*^_^ ;)
女王から命令の変更が伝えられた際に共に告げられた理由に大臣らは怒ったでしょうけど、忍人さんが被害届を出さないので罪には問われることもなく、当人は姿を晦ましてるので何も言われず、戻って来た時には有耶無耶にされています。
しばらく流浪の旅に出ることにはなりましたが、後でいろいろと御褒美が貰えて、柊はご満悦です♪

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