乙女の祈り
このところ、忍人は妙な視線を感じていた。
    その元を辿ると千尋が何か言いたそうな顔でこちらを見ているのだが、用があるのかと問えば首を横に振るばかりだ。
    「あれは、君達が5年間過ごした彼の世界での風習か何かなのだろうか?」
    思い切って風早に尋ねてみたが、解決には至らなかった。
    「俺も気になって千尋に聞いてみたんですが、何でもないというばかりで……。昔は何でも話してくれたのに…ちょっと寂しいですね」
    肩を落とす風早と共にあれこれ想像を巡らせていると、柊が寄ってくる。
    「おや、何かお悩みのようですね」
    「実は…」
    「待て、風早。こんな奴に相談などすることはない」
    事情を話そうとする風早を忍人は慌てて止めたが、勿論それを柊が良しとするはずもない。
    「忍人にそう言われると、ますます聞きたくなりますね。さぁ、遠慮などせずに何でも話してください。どんな相談事でも聞いて差し上げますよ」
    さぁさぁと柊に詰め寄られる忍人を見て、風早は苦笑しながら事情を話した。
「なるほど。私も最近の我が君のご様子を不可思議に感じておりましたが、そうも頻繁にとなると原因をはっきりさせた方が良いのかも知れませんね」
    「どうやって…?」
    「俺にも話してくれないのに…」
    「要は、忍人に何か聞きたいことがあるけど切り出しにくい。風早には聞いても仕方がないか、恥ずかしくて聞けないと言ったところでしょう。ですから、私が伺ってみます。あなた方は陰から聞いていればよろしい」
    「盗み聞きするのか…」
    忍人も風早もあまり乗り気ではなかったが、後になって柊の口からまた聞きするよりはマシだと割り切った。
    「ですが、忍人は充分心構えをしておいてください」
    「何を…?」
    不思議そうにする忍人に、柊は少し真面目な顔で答えた。
    「そんなにも切り出すのを躊躇う話題と言えば、口にしたら怒られそうか、あるいは古傷をえぐってしまいそうな話でしょう?」
    なるほど、と風早も忍人も思ったが、同時に疑問にも思う。
    「口にしたら怒られそう…ですか?そんなことで千尋が躊躇ったりするとは思えませんが…。何しろ、忍人に説教されるのが日課みたいなものですからね」
    「日課とまでは言わないが……3日に1度は説教する羽目になっているな」
    忍人から幾度も説教されてるにも拘らず、千尋は独りでふらふら出歩いて全く懲りる様子がないし、他にもいろいろやらかしてくれる。
    「ええ。ですから古傷をえぐるような話になるかも知れません」
    「つまり、中つ国滅亡の時の話か…」
    忍人は、まだ引きずっている過去と言う意味では、それしか思い当たらなかった。しかし、柊にはもう1つ心当たりがあるらしい。
    「おや、あなたの古傷はそれだけですか?でしたら、昔の忍人の恥ずかしい話は遠慮なく幾らでも聞いて良いのだと、我が君にお伝えしておきましょう」
    「……っ!?」
    狼狽する忍人を風早が宥める。
    「はは…、落ち着いてください、忍人。千尋はそんなことを聞きたがったりしませんから…」
    風早の言葉にホッとした忍人だったが、そこへ柊が聞こえよがしに呟いて追い打ちをかける。
    「あんなに楽しい話を聞きたがらないなど勿体ない。知りたい…そう、我が君が一言仰ったなら、私は知りうる限りのことを幾らでもお話し致しますものを……」
    「話すなっ!!……いや、頼むから…話さないでくれ」
    叫んでから、忍人は思い直して態度を改めた。
    真っ向から嫌がって命令形でものを言うと、柊は反って嬉々として実行する。そんなことは昔からよく知っているのについ過剰に反応して、結局は柊の掌の上で踊らされる。先ほどもそれで失敗したのだが、この件だけはその手に乗せられる訳にはいかない。悔しいが、ここは下手に出るしかない。 
    「ふふ…可愛い弟弟子にそのように頼まれては仕方ありませんね。話せ、と命じられない限りは口を閉ざすことをお約束致しましょう」
    どうにか柊を思い留まらせることが出来て、僅かに安堵を覚えた忍人だった。
作戦通り、忍人と風早を陰に潜ませて、柊は千尋に話を聞いた。
    「如何でしょう、我が君。忍人に直接では訊きにくいことでも、私にならば…。可愛い弟弟子のことでしたら、よく存じております。ええ、事によっては本人が気付かなかったことまでいろいろと……小さいころのことから今後辿るであろう運命まで、昔の恥ずかしい話から華々しい武勇伝の数々まで…。どうぞご遠慮などなさらずに、なんなりと仰って下さい」
    立て板に水とばかりに千尋を唆す柊の言葉を聞いて、忍人は歯噛みした。
    「柊の奴…。話さないと約束した、その舌の根も乾かない内に……」
    「命じられない限り、との条件付きでしたけどね」
    風早の言葉にハッとした忍人に、風早は安心させるような笑みを浮かべて続ける。
    「まぁ、幾ら柊に唆されようとも、千尋はそんなことを命令したりはしないはずですから、大丈夫ですよ」
    すると、陰で忍人がハラハラしながら聞き耳を立てているなど微塵も考えていない千尋は、素直にかねてからの疑問を柊にぶつけた。
    「あのね、笑わないで聞いてほしいんだけど……忍人さんって、どうしていつも腕組みしてるの?」
    隠れている2人は勿論のこと、さすがの柊もしばし思考が停止した。そんなこととは露知らず、千尋はさらに続ける。
    「ただの癖なのかなぁ。それとも、何か武術的に意味があるの?」
    重ねて訊かれて、柊は動揺を抑え込むとどうにか答えた。
    「武術的な意味は…ないかと存じます。師君の教えにそのようなものはありませんでしたから…」
    「それじゃあ、やっぱり単なる癖?だったら、私の前ではやめて欲しいなぁ、なんて思うんだけど……」
    説教されてる時は仕方がないとして、普通の会話どころか恋人らしい会話の時でさえ忍人の腕は組まれたままだ。組まれていない時は腰に当てられていることが多い。
    すると、柊は感じ入ったように応じた。
    「仰る通りですね。主君の前で腕組みなど、無礼千万。何たる不遜、何たる不敬。そのような振る舞いを許して参りましたこと、兄弟子として私も深く恥じ入るところでございます」
    柊が大げさに応じているその陰で、忍人は顔面蒼白となり今にも倒れそうな状態に陥っていた。
    無理もなかろう。常日頃から千尋に立場をわきまえるように繰り返し説いておきながら、自分は臣下としてあるまじき態度をとっていたのだと、千尋の口から言われたのだから…。しかも、それをよりにもよって柊に相談されたとあっては尚更のことだ。
    しかし、風早は倒れかけた忍人の身体を支えながら、ふと思った。無礼とか不遜とか不敬とか、千尋はそんなことを気にするような人間ではなかったはずだ。
    案の定、千尋は柊の言い様にキョトンとした後、事もなげに言った。
    「えっ、無礼って何のこと?私、そんなこと一言も言ってないし、思ったこともないよ」
    これにはまた柊も忍人も驚いたが、風早だけは然もありなんと頷いた。しかし、その後に続いた言葉には、風早も固まる。
    「ただ、その、腕組みされてると…………ないなぁって思って…」
    恥ずかしそうに呟かれた言葉は忍人達の耳までは届かなかった。唯一聞き取れた柊も、自分の耳を疑ったのだった。
しばし静寂の時が流れた後、柊は気力を振り絞って問い返した。
      「我が君……恐れ入りますが、もう一度仰っていただけますか?その…忍人が腕組みしていると何が出来ないと…?」
      「だから、抱きつけないんだってばっ!!」
    真っ赤になって叫ぶ千尋の声を聞いて、忍人も風早も絶句した。
    叫んだことで箍が外れたのか、千尋はそのまま大きな声で続ける。
    「抱きつこうとしても、腕が邪魔になるでしょう?柊や風早なら身長差あるから、ちょっと背中丸めれば大丈夫そうだけど、忍人さんじゃそうはいかないじゃない?だったら後ろから近付いて背中から腰に手を回そうかなって思っても、気配感じて振り返っちゃうし…。ねぇ、柊、何かいい方法ないかなぁ」
    千尋の心からの叫びに、柊は圧倒された。
    こんな答えが返って来るとは、まったく予想していなかった。
    抱きつきたい、とはツンデレな恋人を持つ年頃の女性として当然の感情なのかも知れないが、さすがにそこまで想像することは柊にも出来なかった。忍人に比べれば遙かに詳しいとは言え、柊も乙女心にまではそんなに詳しくない。
    しかし、自分から相談するよう促しておいて、解りませんとは口が裂けても言えない。大見得を切った手前、何か答えなくては…。
    頭をフル回転させて、忍人の行動パターンを思い返して、柊は千尋の耳にそっと答えを囁いたのだった。
それから間もなく、忍人の姿を見かけて駆け寄った千尋は、そのままの勢いで忍人に向って飛びついて来た。
    「…っ!」
    忍人は咄嗟に千尋を受け止めた。その結果、千尋は望み通り忍人の胸に飛び込むことに成功する。
    柊の入れ知恵によるものであることはすぐに察しがついたが、満足そうな千尋の顔を見ていると、危ない真似をするなと説教するどころか、文句を言うことすら出来なかった忍人であった。

