土蜘蛛の薬湯

ムドガラを倒した後突然倒れ込んだ忍人が意識を取り戻したと聞いて、千尋はその枕元に駆けつけた。
すると、ちょうど忍人は遠夜の手から薬湯を受け取っているところだった。彼はそのまま躊躇いなく一気にそれを飲み干す。
「どうした?」
千尋が妙な表情で見ているので、忍人が問うと、千尋は不思議そうに答えた。
「忍人さん、遠夜の薬を飲むの嫌がらないんだなぁって…」
「薬を飲むのを嫌がるなど、子供か、君は!?」
呆れたように言われて、千尋は慌てて言い繕った。
「そうじゃなくて…。忍人さん、遠夜のこと警戒してたじゃないですか。土蜘蛛は信用出来ない、追い出せとか言って…」
「確かに、最初は信用してなかったな。いつ後ろから刺されるか、毒を盛られるか…。土蜘蛛を信用しないのは、今も変わらない」
「だったら…」
「しかし、彼は遠夜だ」
「そう言えば、玄武の前でもそんなこと言ってましたね」
遠夜を足止めしたエイカが現れた時、誰よりも早く正体を見破り、また駆けつけた遠夜を擁護し叱咤激励したのは忍人だった。だからこそ、玄武も力を貸してくれたのだと思う。
「いつの間に、遠夜とそんなに仲良くなったんですか?」
「仲良く…と言うのとは少し違うと思うのだが…」
忍人は遠夜に対する心境の変化について、ポツポツと語り出したのだった。

最初のきっかけは、やはり遠夜が棺から出たことだった。
全く表情の見えない被り物を外して顔が見えるようになると、印象は大きく変わるし、薄気味悪さも減少する。
だからと言ってそれだけで警戒を解くことは出来なかったが、遠夜の千尋に対する態度が自分に対する足往の態度と同じように見えてしまった。また、千尋以外の者に冷たくされて俯く姿も、叱られてシュンとなる足往の姿と重なった。
レヴァンタに捕われた足往達を救い出そうとしている最中に、足往を思わせる様子を見せられてはどうにも調子が狂った。
そうこうしている内に何度も一緒に戦って、破魂刀を使った直後に回復してもらうなどして少しずつ警戒が緩んでいったところに、もっと油断ならない者が軍に加わった。そう、柊だ。
柊に比べれば、言葉の通じない土蜘蛛など可愛いものである。少なくとも、言葉で惑わされる心配だけはない。攻撃範囲だって、柊の暗器に比べればそう広くはない。
そうして遠夜に対する警戒心がどんどん萎えていく中で、遠夜が新たな行動に出たのだった。

ある日、いつものように堅庭で見張りに立つ忍人の元に、遠夜がやって来た。
「何だ?」
そう問う忍人に、遠夜は薬湯の器を差し出してくる。
「何かの薬か?」
忍人に遠夜の言葉は解らないが、遠夜は忍人の言葉が解るので頷いて見せる。
「毒が入っているのではないか?」
今度はフルフルと首を振る。そして、飲めとばかりに器を忍人の口元に近づける。
しかし、完全に信用した訳ではない忍人は、それを飲もうとはしない。
「訳の解らないものなど口に出来るか」
器を押し返して忍人は見張りに戻るが、遠夜は薬湯を持って忍人の傍らに張り付いていた。
一体、どれだけの時間をそうしていただろう。風早と柊が現れて、その均衡を打ち破った。
「おや、二人で仲良く見張りですか?」
「風早…。これが仲良く見えるなら、あなたの目はどうかしている」
「だって、傍に居るのを容認してるでしょう?」
それは、遠夜の気配が薄いのと視界を遮らない位置に立っているからだ。邪魔にならないなら、構うだけ時間と労力の無駄だし、構えばそれだけ見張りが疎かになるからと、無視することを選んだ忍人だった。
「それは薬湯ですか?」
柊が遠夜の手元を見て問うと、遠夜は頷いて忍人の方へと器を持った手を伸ばす。
「飲まないんですか、忍人?」
「毒が入っていないとも限らないんだぞ。飲む訳がなかろう」
柊の言葉を忍人があっさりと切り捨てると、遠夜は器を抱えて傷ついたように俯く。まるで、雨の中に捨てられた子犬のようだ。
「そんなに心配でしたら、私が毒味して差し上げましょうか?」
柊が器に手を伸ばすと、遠夜は器をかばうように身体を捻った。
「おや?」
「ああ、遠夜は忍人に飲んで欲しいんですね?」
柊が拒まれるのを見て風早が言うと、遠夜はまた頷く。
「最近、忍人はお疲れ気味ですからね。先日も、うたた寝してるところを千尋に見られても、すぐには起きなかったそうですし…。ここは有り難く遠夜の薬湯の世話になったらどうですか?」
痛いところを突かれて忍人は返す言葉に詰まった。すると、畳み掛けるように柊が言う。
「遠夜が忍人のためにと真心込めて作った薬湯です、四の五の言わずにお飲みなさい。これ以上拒絶するなら、虎狼将軍が薬湯に尻尾を巻いて逃げ出した、と全軍に言いふらしますよ」
その途端、忍人は遠夜の手から器を奪い取ると一気に中身を飲み干した。
「これで文句はなかろう」
忍人は、柊の口からそんな話を言いふらされるくらいなら、毒でも何でも飲んだ方がマシだという気分だった。実際、劇的に不味い代物だったが、妙な噂を立てられることを思えば何程のものでもない。
そんな忍人の心境が手に取るように解り、柊はしてやったりと笑う。
「扱いやすい子ですね、忍人は」
「喧しい!」
まんまと乗せられたのは百も承知だが、ここで飲まなければ柊は本当に言いふらし兼ねない。どちらを選ぶかと言われれば、今ここで柊に乗せられることを選ぶのに微塵の躊躇いもない忍人だった。

その後も、遠夜はせっせと薬湯を持って忍人の元へと通って来た。
その度に少しずつ毒を盛られてるんじゃないかと不安に思いながらも、どこで柊が見ているか解らないという疑念の方が勝り、忍人は薬湯を飲み続けた。
幸い毒は入っていなかったようで、それどころか本当に忍人の為に煎じられた薬だったらしく、このところ感じていた疲れが取れたような気がした。
戦時下でそれだけの薬湯を作り続けるのは、地元に住む土蜘蛛でも容易ではなかっただろう。しかも、千尋が将として頭角を現して来た今となっては、忍人一人を毒殺しても軍にとって大した損失にはならない。
それまでの戦いぶりとこの献身ぶりに、さすがに忍人も遠夜を味方であり仲間であると認めるに至ったのであった。

「だからって、よく平気であれが飲めますね」
千尋が見た限りでは、小鉢の中身は不気味な液体だった。おまけに何だか変な臭いもしていた。
「見た目も臭いも凄かったんですけど、味の方は…?」
「見た目以上だ」
あっさり答えた忍人は、ちょっと苦しそうだった。おそらくは、出来るだけ味わわないようにしたものの完全には成功しなかったことと、残り香が原因だろう。無視するようにしていたそれらを、千尋の言葉で思い出してしまったらしい。
「しかし、土蜘蛛の薬の味に文句を言っても仕方がない」
それはそうかも知れないけど、と思いながらも千尋にはあれを飲む勇気は出そうになかった。
「そもそも薬とは、効き目さえ確かなら、味など二の次だろう」
「でも、効き目が同じくらいなら飲みやすい方が嬉しいです」
そう言う千尋に、遠夜が何か囁いた。
「えっ、何?」
「神子の薬…飲みやすく工夫した」
驚く千尋に遠夜は続けた。
「オレの薬…不味い、と神子は泣いた。だから…飲みやすくなるように沢山考えた」
そう言われれば、遠夜の作った薬を初めて飲んだ時あまりの不味さに涙目になって、口直しが欲しいと風早に泣きついたっけ、と千尋は思い出した。その後、少しずつ量が増えたものの甘みが加わったり香りがマシになったりして、飲みやすくなっていったような気がする。
「忍人は…どんな薬でも黙って飲む…。だから…効きそうなものは…全部入れる」
投薬対象の症状に効くものだけでなく、予防から何から手元にあるならあれもこれもと片っ端から混ぜた結果が、あの怪し気な液体らしい。
「忍人が元気になると…神子が喜ぶ」
「それは、忍人さんが元気になれば確かに嬉しいけど…」
だからって、あれはないんじゃない?
もう少し飲みやすくしてもいいのではないか、と思う千尋に、遠夜はニコニコ笑いながら言った。
「オレが工夫するのは…神子の為にだけ。忍人にはそのまま…」
それはもしかして嫌がらせ?
いやいや、遠夜に限ってそれはないか、と訝しむ千尋に向かって、遠夜はただ微笑むだけだった。
「遠夜は何と言ってるんだ?」
忍人に問われて、千尋は正直に答えるべきか否か悩み、結局最後の一言は聞かなかったことにしたのだった。

-了-

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