駆け落ちのススメ

「ああ、良かった。やっと戻って来てくれたんだね。ずっと待ってたんだよ」
久々に橿原宮に戻って来た柊は、千尋から熱烈な歓迎の言葉を受けて感無量だった。
「我が君よりそのように過分なお言葉を戴けるとは、恐悦至極に存じます。このように直々においでになられてのそのお言葉……この忠実なる下僕めに何か命じられたき事がお有りなのでしょうか?」
「そうなの、柊。お願い、遠夜と夫婦になれるように力を貸して!」
二人の仲は充分に承知しているとは言え、面と向かって他の男と結婚するために力を貸せと言われると柊も少しばかり悲しくなるのだが、そこは骨の髄まで千尋の下僕となり下がった性で何とか堪えて余裕の笑顔を浮かべて見せた。
「畏まりました。ですが、その前に幾つか、我が君にお伺いしたいことが御座います」
策はいろいろあるが、千尋がどんな形での願いの成就を望んでいるかによって採るべき道は自ずと変わって来る。
「我が君におかれましては、玉座を捨てるお覚悟でいらっしゃいますか?」
「遠夜と玉座のどちらかしか選べないなら玉座の方を捨てるよ。元々、そんなつもりで戦いを始めた訳じゃなかったし…」
そこで千尋が何か躊躇っているのを見て取り、柊は重ねて問う。
「玉座に未練がお有りですか?」
「ううん、違うの。玉座なんて要らない。でもね、一緒に戦ってくれた人達を裏切ることになるんじゃないかとか、民や風早達が迫害されるんじゃないかとか、それが心配なんだ。狭井君って大豪族以外のことは物凄く侮蔑してるし、私が居なくなったら多分風早が責任問われるよね?」
相談する前から既に千尋は遠夜と駆け落ちすることを真剣に考えていたのだと、柊は感じた。その時点で、幾つかの策は闇に葬る。
「では、逃避行は遠夜と二人きりでなくても構いませんか?」
「えぇっと、遠夜と二人きりの時間が持てるなら、それでも構わない……かな」
千尋のこの答えに、柊は策を選び出す。
そして、かつての仲間達を片っ端から巻き込んであれこれ根回しをした末に、千尋の熊野詣が決まったのだった。

熊野詣には忍人率いる小規模の護衛兵の他に、風早、那岐、遠夜が同行した。
柊はまた何処かへ消えてしまった。暗躍する為だと解っているが、策の詳しい内容を聞かされていないのが少々不安だった。柊は、逃げる手筈もそのタイミングも教えてはくれなかった。しかし、柊のことを信じて千尋は言われた通りに振舞う。
そして熊野へ着いて間もなく、忍人が血を吐いて倒れた。
すると、心配する千尋の前に柊が現れてそっと囁く。
「ご心配なく…あれは血糊です。忍人に協力して貰ったのですよ」
そしてホッとした千尋に告げる。
「後は敵が動くのを待つだけです。くれぐれも油断などなさいませんように…」
それだけ言って柊はまた姿を消した。
これは遠夜との駆け落ちのはずなのに敵とはどういう意味なのだろう、と千尋は訝しみながらも時を待つことにして、遠夜と束の間の逢瀬を楽しんだ。

その時は突然やって来た。
賊の侵入を知らせる声、続いてあちこちから響く剣戟の音。天幕の前の見張りが倒される気配がして千尋が身構えると、何者かが乱暴に押し入って来た。
「来ないで!」
千尋がすかさず弓矢を向けると、感心したように声を掛けられる。
「それで良い。帰還当初とは比べ物にならない程成長したな」
その声と言葉に相手の正体を覚り、千尋は目を丸くする。覆面をして押し入って来たのは忍人だった。
「今は賊として、君を攫わせてもらう。せいぜい派手に悲鳴を上げてくれ。本気で暴れてくれて構わない」
言われた通り千尋は本当に賊に攫われているかのように大声を上げて本気でじたばたしたが、さすがに忍人はそのくらいで千尋を取り落すようなことはなかった。
森の奥に入ったところで千尋の身柄を柊に渡すと、忍人は人目につかないように引き返し、賊を追って来た振りをして部下達と合流した。そして再び森の中へと入って、那岐の鬼道で作られた血まみれの千尋を発見した。忍人が駆け寄ると、その目の前で事切れた千尋の身体が光となって霧散する。
そこへ先の方から賊を追う風早達の声が聞こえ、忍人は狗奴以外の者には陣に引き返すよう指示した。
「お前達を連れて居ては追いつけるものも追いつけなくなる。戻って副将にこれまでのことを報告し、以後は彼の指示に従え。俺はこのまま賊を追う」

「随分と大がかりな駆け落ちになっちゃったね」
柊に担がれて森を抜け海岸に出た千尋は、サザキ達が待ち受けているのを見て驚いた。そのまま、追い付いてきた風早、那岐、遠夜、忍人、そして狗奴数名と共に海に出て大陸に向かうことになり、更に驚く。
「風早や那岐はともかく、忍人さんも一緒だなんて思っても見ませんでした。良かったんですか、何もかも捨てちゃって…」
「構うものか。あのままでは俺は、君と遠夜を裏切るような真似をさせられるところだったんだ。氏族に害を為すことなくそれを回避出来るなら、何も惜しくはない」
昔の忍人なら、恐らく柊から話を持ち掛けられた時点で、女王が側近達と共に駆け落ちしようとしていることを狭井君らに報告し、それを阻止する手筈を整える方向へ動いただろう。しかし、千尋と共に戦い抜いて遠夜と友誼を結んだ今では、彼らの幸せの芽をその手で摘み取るようなことは出来なかった。
王婿の最有力候補だった忍人は、ずっと思い悩んでいた。道臣と結託して氏族を説得し、葛城と大伴が揃って態度を濁しながら他の族を牽制して来たとは言え、狭井君の方から打診があれば受けざるを得ない。牽制を跳ね除けて何処かの有力な族が縁談を申し入れればどちらの族も名乗りを上げない訳にはいかなくなるだろう。そうなれば恐らく選ばれるのは忍人だ。良友の恋人を寝取り敬愛する主の心を踏み躙ることになってしまう。いっそのこと、形だけ婿に収まって遠夜を手引きするべきかなどと思い詰めもした。
そこへ柊からの協力要請である。他の事ならともかく、柊は千尋の為にならないことはしないし、千尋の性格を思えば忍人達を捨て駒にすることはないと信じられた。ならば、柊の策に乗ってみようと思った。葛城の名も将軍の地位も、何もかも捨て去ることになっても構わなかった。
そんな話を聞いて、千尋と遠夜は感極まって前後から忍人にギュッとしがみ付いた。

「ふふふ…この計画は忍人が鍵でしたからね。忍人が全面的に協力を約束してくれたおかげで、ついでに不穏分子も減らせましたし、あの御仁らも当分は他のことで手一杯になるでしょう」
この度の熊野詣に随行した兵には、千尋に対して良からぬ考えを持っている各勢力から取り混ぜて選び出した者が大勢居た。その他は、経験を積ませる為との名目で選ばれた未熟な副将と一般兵、そして忍人の腹心の狗奴数名である。狗奴達は忍人の行く所なら何処までも付いて行く者達ばかりで、皆独り身で、国に義理も未練もない。
忍人が血を吐いて倒れたことで、兵達の間には様々な憶測が飛び交った。毒殺説が有力だったが、その理由も疑わしい相手も区々で、どれも優劣が付けられなかった。
殺そうとしたのは葛城忍人か葛城将軍か、それとも女王なのか。
婿候補を潰す為にも女王を攫う為にも最も狙われるべき立場に居るのが忍人だ。この熊野が葛城と大伴に並々ならぬ対抗心を燃やしている物部の領地に近い場所であることも、女王を攫う計画があっても不思議ではないと思わせるに足る。それが反って、高志や毛野の手の者が焦る要因にもなり得る。またその一方で、女王の命を狙う者は何処にでも居る。護衛の要である将軍は邪魔だし、直接女王を狙ったところを忍人が毒見して倒れたとも考えられる。
可能性があり過ぎて、不穏分子達は疑心暗鬼になった。他の勢力に先を越されるのではないかと焦った。忍人が倒れたおかげで警備は手薄になり、女王を攫いやすくも殺しやすくもなった。そこへあの騒ぎである。彼らはこの機に乗じてとばかりに動き出し、鉢合わせした者は互いに剣を交えて果てたり、風早達に討たれたり捕えられたりした。今後の橿原宮は彼らやその黒幕の詮議に大忙しだろう。
「姫を連れ去った賊は、激しく抵抗されて誤って殺めてしまい手ぶらで逃走。姫の躯が光となって消えたところは複数の兵が目撃しています。ここは神の守護の厚い土地ですし、姫はこの地で神を目覚めさせた実績をお持ちですから、恐らく神の御手によるものと思われましょう」
「良いのかなぁ、神様をそんな風に利用して…」
「私達がそのような話を流布するのではなく、残された者達が勝手にそう思うのです。姫は何ら責任を感じる必要など御座いません」
柊は澄ました顔で言って退けた。
「賊を追って行った者達が帰らなければ、返り討ちにあったと思われるのが自然です。これが風早達だけなら小細工をして姫と共に逃げたと疑われることもありましょうが、忍人も消えたとなると疑いの余地はありません。およそそんな愚行とは無縁と思われていますからね。本来ならば忍人がそう簡単にやられるはずなどありませんが、死にかけたばかりとなれば信じていただけることでしょう」
忍人の吐血はその為の布石でもあった。
「そ…そうなんだ。迫真の演技だったもんね、忍人さん」
千尋は感心したが、それに対して忍人は心底不快そうに吐き捨てた。
「演技などであるものか。よくもあんな血糊を寄越してくれたな」
グッと喉を鳴らして口を押えるまでは確かに演技だったが、その後言われた通りに血糊の袋を口に含んで噛み潰したところで忍人は真っ青になって本当に地に伏した。協力を約したからには文句を言える筋合いではないのだろうが、あの時ばかりは一瞬だが後悔の念に囚われたものだ。
千尋が不思議そうな顔で忍人と柊の顔を交互に見ていると、柊が種明かしをしてくれた。
「ふふふ…あの血糊は野いちごを煮詰めて作ったんです。果実臭はかなり飛ばしてありますし、血のような匂いも付けておきましたが……忍人の舌と狗奴の鼻は誤魔化せなかったでしょうね。大っ嫌いな野いちごの味が濃厚に口いっぱいに広がって、忍人は実際に気持ち悪くなって意識が遠のいたはずですよ」
本当に倒れ伏した以上、誰も忍人が仮病を使ったなどとは疑わない。狗奴の方は、忍人の為にも口を噤んでいるだろうから問題ない。多少の挙動不審は、全て忍人が倒れた所為に出来る。端から柊は、その為にも忍人を本気で昏倒させる計画を練っていたのだった。
「…鬼だね、あんた」
那岐のツッコミに、一同は揃って頷いた。
そして遠夜は労いの意を込めて再び忍人をギュッとして、慰めるようにポンポンと背中を優しく叩いたのだった。

-了-

《あとがき》

遠夜×千尋創作なんだけど、遠夜の出番は極少に…(^_^;)
実態は、遠夜と千尋の為に奔走する柊と忍人さんのお話でありました。
遠千の場合、遠夜は普通に誰とでも会話出来るのですが、旅の中での癖や感極まったこともあって態度で忍人さんに気持ちを伝えようとした結果、台詞なしと相成りました。千尋とすら会話してないよ、この子((+_+))

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