百聞は一験にしかず

「風早、具合どう?」
お見舞いに来た千尋に、風早は弱々しく答える。
「……風邪って、こんなに辛いものだったんですね。思っていた以上に、堪えます」
風早も、知識としてならよく知っていた。何しろ、千尋達が風邪をひいたところも何度も見て来たのだ。
しかし、罹ったのはこれが初めてだった。
「禍日神の呪詛より辛いとは思いませんでした。こんなものに罹りながらも、無理を押して登校したり出勤したり、鍛錬に明け暮れたりも出来るなんて、人間ってすごい生き物だったんですね」
「まがつひ…?」
千尋が首を捻ると、看護にあたっていた柊が諭すように言う。
「風早…今の姫に、その記憶はありませんよ。ラスボスはアレではなく白龍でしたから…」
「そうでした。ゴホゴホ……はぁ…まるで頭が回りません」
風早は、熱の所為もあって頭がボ~っとしていた。
「身体の痛みや息苦しさなら、呪詛ですっかり慣れっこなんですけどね」
「熱は初めてですか」
「ええ、あれはこんな風に頭が熱くなるんじゃなくて、寧ろ全身が冷える感じでしたから…」
柊と風早の会話から、千尋は風早が呪詛を受ける既定伝承が繰り返されて居たことを察する。
「要するに、風早は呪詛なら耐性バッチリでも風邪にはまるで免疫がないってことね」
「ははは…そういうことですね」
「風早…こんな時まで笑わなくて良いから……」
酔った時以上に真っ赤になった顔をして笑って見せる風早に、千尋は呆れたように返した。

数日経っても、咳は治まりつつあるものの、風早の熱は一向に下がる気配を見せなかった。
「もしよろしければ、秘蔵のアレを差し上げましょうか?」
「秘蔵のアレ…?」
キョトンとした顔の風早に、柊は愉し気に応える。
「坐薬ですよ」
「柊……あなた、この時空でも作ってたんですか」
風早が呆れたように言えば、柊は胸を張るようにして言って退ける。
「当然でしょう。この私に抜かりは有りません。いついかなる時空であろうとも、隙あらば忍人に使ってやろうと研究に研究を重ね、準備万端整えております」
ましてや、この時空では絶対に千尋が手に入らないと解っているのだから、その分も忍人に歪んだ愛情が注がれることとなる。
「残念ながらなかなか隙を見せてもらえず、いまだに出番はありませんが……」
「それ……本当に使っても大丈夫なんですか?」
黒龍との戦いに赴かず、敵地に身を置くこともなかったのだから、柊がコレを用いる機会は極めて少なかったはずである。果たしてそれで、効果と安全性は保証されているのか。
世界で二番目に好きな相手に使おうとしているのだから大丈夫、と思えなくもないが、風早は何とも不安でならなかった。
「ふふ……ご心配なく。自分で試せない分、適当に被験者を見繕って、秘密裏に充分な人体実験……もとい臨床実験を実施済です」
怪しく笑う柊の様子に、風早は「今、人体実験って言ったような気が…」と胡乱な目を向ける。
「で、でも、まぁ、効果と安全性が一応確認出来てるなら…」
風早は、この辛さから逃れたいのと千尋にいつまでも心配をかけたくないのとで、柊の悪魔の囁きに乗せられかけた。
しかし、正にその時、神が舞い降りる。ちょうど見舞いに訪れた千尋が、寝室から聞こえて来た怪しい会話を耳にして、慌てて止めに入ったのだ。
「早まっちゃダメだよ。風早は薬にだって免疫がないんだから…。即効性に欠ける薬湯だって副作用がちょっと心配になるのに、こんな普通の人でも即効性のあるようなものをいきなり使ったら、どんな副作用があるか解らないじゃないの」
どうしても使うのなら、せめて乳幼児用のものにしておくべきだと千尋は考えた。

「ああ、それにしても、本当になかなか熱が下がらないね。薬湯、効かないのかなぁ。変な副作用が出ないに越したことはないけど、効き目もないんじゃ困るよ。もうっ、薬師の奴等、材料ケチってるんじゃないでしょうね」
改めて風早の額に手をやった千尋は、嘆いたり怒ったりと忙しかった。
いくらあちらの世界と違って即効性に欠けるとは言え、まるで効果が感じられない。こうも熱が続くのは、もしや薬湯に熱さましが含まれていない所為ではあるまいか。
王族相手なら惜しみなく使う効き目のある材料も、希少だからと侍従には使い渋ってるのではないかと勘ぐりたくなる千尋だった。
「薬師達には万に一つも手抜きしないように私から念を押しておくから、風早はバカなこと考えないで……辛いだろうけど、もう少し我慢して…。食欲なくても食事はちゃんと食べるんだよ。それと引き続き、水差しの中身は絶やさないようにするし、薬草茶もこまめに運ばせるから、水分はたっぷり取るようにしてね」
「はい」
風早が素直に頷くと、千尋は柊に向き直る。
「柊も…そんなものより、沢の冷水でよく冷えたおしぼりを沢山作って持って来てよ。よく見たら、額にしかおしぼり当ててないじゃないの。しかも、すっかり温まってるし…。ちゃんと冷えてるのを首筋にも当ててあげて……あと、状況次第で脇の下と足の付け根にもね。で、こまめに交換……ってか、今まで何やってたの? 柊がこんな基本的なことを知らない筈がないでしょう。そんなパチモンが作れるくらいだし…。何の為に柊に看病を頼んだと思ってるの? 嫌がらせなら元気な時だけにして頂戴」
「は、はい、畏まりました。申し訳ありません」
千尋の命により、柊は弾かれたように部屋を飛び出して行った。

戻って来た柊がてきぱきと風早におしぼりを当てるのを見届けて、千尋は労いの言葉を掛けると後を任せることにした。
「それじゃ、私はとりあえず退散するね。本当は付きっ切りで看病してあげたいんだけど、いろいろ支障があるみたいだし…」
女王公認の恋人同士とは言え、姫が侍従の看病をするなど周りが良い顔をする筈もない。また風早自身が千尋に感染すことを何よりも懸念しているので、いつまでも居座っていては反って気疲れさせてしまう。
「出来るだけ様子を見に来るようにするけど、風早はそんなの気にしないでちゃんと眠るんだよ。その方が私も安心出来るんだからね。元気になればまたいつでも一緒に居られるんだから……その為にも、早く元気になってね」
「はい!」
今度の風早の返事には力が篭っていた。
「そうです。元気になれば、また千尋とずっと一緒に居られるようになるんです。毎朝髪を梳いて、日に何度も美味しいお茶を煎れてあげて、一緒に仕事をしながら他愛ないお喋りもして……とにかく至福の時が再び俺の元に戻って来るんです!」と、そんな心の叫びが聞こえて来るようだった。
その一念が功を奏したのか、はたまた柊が真面目に看病した所為か。それとも、姫の念押しで薬湯が良いものに変わったのか。
兎にも角にも、風早の体調はその後急激に回復し、また笑顔で千尋と一日中共に過ごせるようになったのであった。

-了-

《あとがき》

風早が生まれて初めて風邪に罹患したお話。
繰り返す時の輪の中で、山ほど風邪引きさんを見て、数え切れないほど看病もして、知識だけは溢れるほどあったんでしょうけど、自分が風邪を引いたのはこれが初体験です。
そして柊も、看病の仕方についての知識はやっぱり溢れるほどあるものの、看病させてもらえることは滅多にないし、これまた有り余る知識に基づくやり方を実践出来る機会は皆無だったので、いざ目の前に高熱を出して寝込んでいる風早がいたところで知識の持ち腐れとなってました。

そんな訳で、本来のことわざは『百聞は一見にしかず』ですが、この小話の場合は、詳しい知識も一度の体験・経験には及ばないってことで、タイトル表記は”一見”ではなく”一験”となっております。

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