バレンタイン・タクティクス
「ん~、どうしようかなぁ。こっちの世界では材料だって手に入らないだろうし…」
      千尋はその日を前にして頭を悩ませていた。
      「でも、お互いに知ってるんだから、やっぱり贈った方が……って言うか、贈りたいよね」
      しかし、材料は手に入らない。代替品のアテもない。ならば似たような物をと思いはするものの、では何が良いのか何なら可能なのか。
      こちらでの記憶を引っ張り出しても姫としての生活の中にはそのような知識の入り込むことはなく、向こうの世界とあの旅の中の記憶でもヒントになるようなものはなかった。
      もっとも、アレは製菓メーカーの宣伝戦略という説もあるので、とりあえず甘い物ならOKか。
      だとしても、こっちの世界で自分が作れそうな菓子にもレシピにも心当たりはない。      いっそ風早に訊いてみようか、と思いはしたものの、出来れば当日まで内緒にしておいてビックリさせたい。
      あれこれ考えた末、千尋は向こうの世界とこっちの世界に精通している人物がもう一人居たことに思い当たった。
    
「あっ、柊、ちょうど良かった。今、会いに行こうとしてたトコだったの」
      よしっ、と勢い込んで千尋が部屋を出ようとしたところへ、采女から来客を告げられた。何と、今まさに訪ねようとした人物の来訪である。
      「ああ、でも、その前に、柊の用事は何?」
      「はい、こちらを…」
      柊は一巻の竹簡を差し出した。
      「御入用なのではないかと愚考致しまして、お届けに参上いたしました」
      はらりと開いて中を見た千尋は目を見開いた。
      「これ……そう、これが知りたかったの。ありがとう、柊!」
      先回りして、今一番欲しかったものを持って来てくれた柊に、千尋は感極まって抱きついた。
      「このようにお喜びいただけるとは、望外の悦びに存じます。器材は既に道臣を通じて入手を済ませ、当日は師君方の厨房を押さえてございます。風早を夕刻まで足止めする手配も整えておりますれば……よろしければ、是非、当方までお越しくださいませ」
      千尋は感心して目を瞠った。
「さすがは柊、手回しが良いね。それじゃあ、柊、このことは二人だけの秘密ね」
      「はい、お約束いたします」
      柊は嬉しそうに指切りをして去って行く。
    その現場を遠くから目にした風早がそっと踵を返したことに、千尋は気づいて居なかった。
当日、風早は柊の陰謀で夕方まで千尋に会えなかった。しかも、やっとのことで顔を出すと、ほぼ一日中離れていたにも拘らず、千尋は浮かれた顔をしている。
      「楽しそうですね、千尋」
      「えっ……ああ、うん、まぁね」
      「朝からずっと俺に会えなかったのに、寂しかったとか言ってはもらえないんですか」
      「あっ、えぇっと、寂しくなかった訳じゃないんだけど…」
      ちょっと気まずい思いをしながらも、千尋は笑顔を隠し切れない。
    「柊のおかげですか?」
    千尋はギクリとした。
    「この前、柊から何か貰ってましたよね。千尋、すっごく喜んで……柊に抱きついたりして…。その後、キスとかされてませんでした?」
    「やだ、見てたの?でも、キスはされてないよ」
    千尋は、指切りする時に柊がちょっと身を屈めたのがキスしたように見えちゃったのかな、と思いながら、意図的にちょっと頬を膨らませて意地悪な問いを発する。
    「もしかして風早は、私が柊と不貞をはたらいてるとでも疑ってるの?」
    「千尋!冗談でも、そんな事言わないでください。俺が千尋の心を疑うなんて、そんなの、例え世界が滅んだとしても有り得ません」
    案の定、風早は勢い込んで言った。その言葉に、千尋は苦笑する。
    「うん、解ってる。でも、風早も、例えでも”世界が滅んでも”とか言わないでね。他の人なら情熱的な言葉で済むけど、風早が言うとシャレにならないから…」
    「ははは……そうですね、すみません」
風早が少し機嫌を直したところで、千尋は竹簡の陰から一つの包みを取り出すと笑顔で差し出した。
    「はい、風早。Happy Valentine's Day」
    「あっ…」
    差し出された天色の包みを見て、風早は全てを悟った。
    「それで、柊は俺の邪魔をしたんですね?」
    「うん。レシピを用意してくれて、道臣さんを通じて器材を揃えてくれて、製作の舞台も整えてくれたの」
    道理で千尋があんなに嬉しそうに、そして離れていても楽しそうにしている訳だと合点がいく。
    「でも、いくら柊や道臣さんでも、さすがにチョコレートは無理だったんで、別のお菓子なんだけどね。とにかく、開けてみて」
    千尋に促されて包みを開けると、中からはハートの形のプルンとした物がお目見えした。
    「イチゴの寒天……ですか?」
    「うん。ちょっと色が薄いけど、赤いハートのつもり。思ってたよりは上手く出来たかな、って思ったら、ついつい浮かれちゃって……風早と一緒に居られなかった寂しさよりも、これを渡す時の楽しみの方が勝っちゃったんだ。ごめんね、風早には朝からずっと寂しい思いさせておいて…」
    申し訳なさそうに窺い見る千尋に、風早は満面の笑みで応える。
    「良いんです。寂しかったのなんて、もう、全部吹っ飛んじゃいました」
    それから、風早は千尋をギュッと抱き締めた。千尋も風早の背に腕を回し、久しぶりに正面から千尋に抱き付いてもらえた風早の中では、先日から覚えていた柊への悋気も昇華されていく。
    しかし、しばらく後、どちらともなく身体を放すと、風早の目に綺麗な包みが二つ映り込んだ。
    「千尋、あれは…?」
    千尋が風早の視線を辿ると、そこには文机があり、その上には萌黄色と紺碧色の小さな包みが乗っていた。
    「ああ、あれは柊と道臣さんの分。ほら、今回のことではいろいろお世話になったから、感謝チョコ……って、チョコじゃないけど…」
    答えてから、千尋は風早が不満そうな顔をしていることに気付いた。
    「……妬いちゃった?」
    「ええ。俺だけの特権かと思ったのに…」
    「ごめんね。でも、サイズは全然違うんだよ。風早のは大本命で、二人のは感謝なんだから……ねっ、見れば解るでしょう?」
    それでもまだ何やら納得できないような風早に、千尋は「しょうーがないなぁ」と零してから手を伸ばす。
    「それじゃあ、風早には大本命ならではのオプション付けてあげる」
    言うなり、千尋は風早の首に腕を回して引き寄せながら自身は少しぶら下がるようにして、グイッと互いの唇を重ねた。
    「どう?これは、大本命の風早だけの特権だよ。それでも、二人にあれを渡すのは見過ごせない?」
    「頭では理解出来るんですけど…」
    「じゃあ、もう一つオプション付けてあげる。今度は風早からして。それも風早だけの特権だから……ディープキスでも何でもドンと来いだよ」
    千尋は風早を見上げた状態で首を固定し、そっと目を閉じる。
    しかし、風早が唇を寄せたところで、外から声が掛かった。イイところで邪魔をされた風早が不機嫌な顔で振り返ると、そこには柊が立っている。
    「おや、どうやらお邪魔だったようですね」
    「……わざとでしょう。タイミングを見計らって声を掛けましたね」
    「当然でしょう。そのようなことはお部屋に戻られてからなさってください。お部屋ででしたら、子作り以外のことは何をしようとも水を差すつもりなどありませんが…」
    「柊っ!!」
    人目を憚らず風早といちゃつく千尋も、さすがにこれには真っ赤になった。それでも、しばし睨め付けた後、気を取り直して二つの包みを取り上げる。
    「もうっ、柊ったら……はいっ、これ、あげる。感謝の印。道臣さんにも、よろしく伝えておいてね」
    「恐悦至極に存じます。道臣にも確と伝えておきましょう。またお困りのことがございましたら、何なりとお申し付けください」
    恭しく一礼して、柊は二つの包みを手にホクホクと帰って行った。
    「あれ……絶対、わざわざ取りに来ましたよ」
    「うん。最初から、これが狙いだったのかもね」
    それでも千尋にとっては、風早へのバレンタインギフトの方が大切だったので、柊を恨む気持ちなど微塵も湧いては来なかったのだった。

