触らぬ彼らに祟りなし
廊下が何やら騒がしいなぁと千尋が腰を上げると、目の前で執務室の戸が勢いよく開けられた。
    「陛下!柊の奴をどうにかしていただきたいっ!!」
    怒鳴り込んで来た忍人が上着の前を掻き合わせていた手を外すと、内衣が引きちぎられていた。髪もボサボサになっていて、全身薄汚れている。
    「えぇっと……もしかして、柊に何かされました?」
    「何かどころではありません!陛下のご懐妊以来、一人寝が寂しいだの慰めて欲しいだのと言って付きまとい、しつこく迫って来ていたのは既に何度もご報告申し上げたと記憶しておりますが……陛下のお返事に反して一向に善処されることなく、ついにはこの昼日中に強引に事に及ぼうとまで致しました」
    その結果が、今の忍人のこの姿らしい。
    「……よく、未遂で済みましたね」
    忍人のこの状態を見る限り、間違いなく寝技に持ち込まれたはずだ。さすがの忍人も、そこから早々に柊の手を逃れられるとは思えない。
    「形振り構わず助けを呼びました」
    「はぁ……それで、そのままの恰好でここへ?」
    「はい。身繕いをしてから参ったのでは、陛下には事態を正しく認識いただけない恐れがあります故」
    確かに、この姿を見なければ、忍人が被害を訴えたところで千尋は少々度を越した悪ふざけ程度にしか受け止めなかったかも知れない。
    そう納得して改めて忍人の姿を見ると、沸々と怒りが湧き上がって来た。
    「ふっふっふっ……確かに、これは由々しき事態ですね。ええ、まったく……柊ったら、何てことを…………ふふっ…ふふふふふ…」
    怪しく笑い出した千尋に忍人から血の気が引いて行った。無意識に上着を整え、千尋の正面から脇へと移動する。
    すると、千尋は踵を返して窓の外へと大声を上げた。
    「ひ~い~ら~ぎ~っ、すぐ来なさい!」
「この浮気者!」
    ベシベシベシベシッと連続往復ビンタが飛んだ。
    「ちょっとくらいなら遊んでも良いけど、浮気はダメって言ったでしょう!それを、よりにもよって忍人さんに手を出すなんて……柊のバカバカバカバカバカ~っ!!」
    「陛下……どうかお気をお鎮め下さい」
    「そのように興奮されてはお身体に障りましょう」
    「やめろ、落ち着け。柊は喜んでいる」
    采女と忍人に止められて、千尋は手を止める。すると確かに、柊は胸に手を当てて恍惚としていた。
しばらく柊を睨みつけていた千尋は、急に人が変わったように、一見すると慈愛に満ちたような笑みを湛えて告げる。
      「嬉しそうね、柊。それなら、今度は踏んであげるわ。そこに仰向けに寝転がりなさい」
      「はい」
      柊は嬉々としてそれに従う。
    すると、すかさず千尋の片足が靴先で上着の裾を踏み、もう片方の靴の裏が柊の足の付け根に押し当てられた。
    「あんっ…」
    悦びに満ちた声を上げる柊に、周りの者達は凍りつく。
    「ねぇ、柊はこれがなくても私を満足させられるよね?」
    「我が君…?」
    思わぬ展開に柊が急ぎ逃れようとすると、そこに軽く体重をかけられる。下手に動くと、千尋を転倒させかねないので、柊は身動き適わなくなった。
「出来るよね、柊なら…。それとも、出来ません、と言ってみる?」
    千尋に向かって「出来ません」と言うのは、柊にとって自己アイデンティティに係わる大問題である。それに確かに、千尋を満足させる自信は大いにあった。
    「で……出来ますけど…」
    「だったら、こうして子供も出来たことだし、これが使い物にならなくても平気よね?」
    「ひ……姫…?」
    じわじわと更に体重をかけられて、痛みと恐怖で柊は青褪める。
    周りの者達も、止めるべきとは思いながらも、凍りついたまま全く動けなかった。
    「だって、これがあるから変な気を起こすのでしょう?」
    「ひぃっ……ももも…申し訳ございません!二度とこのようなことは致しませんから……ですから、どうかこれ以上はもう……お…お許しください!」
      柊が充分震え上がったところで、千尋は足を引いた。
      「今度やったら、こんなもんじゃ済まさないわ。やるなら、潰される覚悟をすることね」
      「はい…………はいっ!!」
    柊は這う這うの体で逃げて行った。
柊が行ってしまうと、千尋にいつも通りの様子に戻って忍人に問うた。
      「ふぅ~、こんなもんで良いですか、忍人さん?」
      「えっ?」
      状況に付いていけなかった忍人に、千尋は苦笑しながら言う。
    「これだけ脅しておけば、もう、悪さしないと思います。この度は、うちの柊が多大なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。本当にごめんなさい」
    深々と女王に頭を下げられてしまった忍人は、どう返して良いのやらと困惑するばかりだった。
「うぅっ……ひっく……怖かったです~」
      「ああ、はいはい、そうですか。加減を見誤ったあなたの自業自得でしょう」
      「そりゃ、ちょっと悪ふざけが過ぎたかな、とは思いましたけど……他の女性に手を出した訳ではありませんのに…」
      「何処が”ちょっと”なんですか。忍人に手を出すなんて、千尋に対するとんでもない裏切り行為です。それなら世界中の女性に手を付けて回る方が、本気じゃない分、まだ千尋は許してくれますよ。ええ、隠し子がわんさか現れたとしても、笑って済ませてくれるでしょう」
      「今となってはもう、我が君以外の女性など欲しくありません。ましてや隠し子などと……昔から私はそんなヘマはしませんよ」
      「まぁ、そうでしょうね」
      「ふぇっ……我が君からこのように恐ろしい真似をされようとは…………あなた、一体、姫にどんな教育をしたんですか?」
      「千尋がそんなことを考え付いたのは、間違いなく、あなたの教育の賜物です」
      「私の所為にするつもりですか!? 本当に潰されるかと思ったんですよ」
      「潰されずに済んだんだから、良かったじゃないですか」
      そうやって、泣きついて来た柊をしばらく適当にあしらっていた風早は、忍耐もそろそろ限界となり、氷の微笑を浮かべて向き直った。
      「あのね、柊……千尋だけじゃなく、この俺も物凄~く怒ってるんだってこと、まだ解らない?」
      「うぅっ……えぇっと、あの…」
      「今すぐ、千里の彼方に蹴り飛ばすか、大陸の果てまで捨てに行くかしてあげましょうか?」
    「…………すみませんでした。もう本当に絶対、二度とこんな真似は致しません」
-了-

